地域が誇る昭和戦前の大谷石名建築(2)/ 橋本 優子(宇都宮美術館専門学芸員)

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明治の末に計画が始まり、大正年間に着工、開業を目前にして関東大震災を経験し、避難所の用も成した「旧・帝国ホテル ライト館」 1)は、昭和戦前の石の街・石の里に、大谷石文化の新しい地平をもたらした。その街の名は、もちろん宇都宮で、里は今日の大谷地区(当時は城山村)である。ここで言う「大谷石文化」とは、地域に産する石をめぐる人々の精神的な活動(狭義の文化)と、成果として導かれた物質的な所産(いわゆる文明)を両輪とし、生活様式の総体(広義の、つまり今日的な意味合いの文化)、言い換えると「石を擁する暮らしのあり方」を指す点に留意されたい。

このような大谷石文化のうち、昭和戦前、すなわち1920年代後半から1930年代の思潮、それを反映する地域の有形・無形の生活様式を、社会に向けて明確に示す包括的な領域は、やはり石による「建築」として良い。なぜならば建築は、前提となる自然・風土、求められる目的・機能に適い、時には逆説的な解として抗うことも辞さず、工学、産業、経済に立脚しながら審美性を備え、様式の混淆、過去への決別も含めて、歴史・民俗と関わる精神的活動かつ物質的所産だからだ。

本連載の3回目では、世界・日本・地域の建築全般、近代におけるその展開を、まさに「文化」の視点で、あわせて「ライト館」という所産、その実現をめぐる活動、これらの意義について、「A. 木+土(+紙)の在来建築(日本)」「B. ざらざらとした軟らかい石の実用建築(世界)」「C. つややかな硬い石+重厚な煉瓦の歴史建築(西洋)」「D. 鉄+ガラス+コンクリートの近代建築(世界)」――対抗しながら類縁を持つ四つの概念に照らして整理した。

そして、竣工1928(昭和3)年の「旧・宇都宮商工会議所」 2)を取り上げ、この建物が実現に至るまで、並びに結実後の地域社会との関わり、本件が石の街・石の里によって導き出された独自な「B・C・Dの三者和合」だったこと、取りも直さず「新しい生活様式となった大谷石文化」の筆頭事例として解き明かしている。

続いて焦点を当てるのは、同時代の1932(昭和7)年に竣工の「カトリック松が峰教会聖堂」、翌年に立ち現れた「日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会礼拝堂」 3)というキリスト教に供する二つの建造物である。

さまざまな意味で好対照を成す両者は、四つの概念による分析においては、「旧・宇都宮商工会議所」と同じく、ともにB・C・Dの三者和合に類別される。ただし、和合の様態はまったく異なる。

と言うのも商工会議所の旧建物は、「ライト館」を手本に、近代的な用途を満たす大規模なBの具現化に向けて、Dによって編み出された画期的な二種の工法を併用したからだ。意匠面で拠り所となったCや「ライト館」との接点は、おおむね外観の主要ディテールに集約される。

一方、二つの教会の場合、西洋中世、具体的には「ロマネスク」(松が峰)及び「ゴシック」(聖ヨハネ)というCの建築言語が、きわめて直截的に用いられた。これらは、屋内外の装飾にとどまらず、建物の配置、平面・立面計画など、宗教施設の根幹と関わる点を忘れてはならない。

ところが、そのことを現実のものとするには、軟質で脆い大谷石の性質、江戸末期に遡る「木造・張り石」、明治以降の洋風建築に準じる「積み石造り」「木骨・石造」など、産地と国内で育まれたBの造営技術では、およそ不可能だった。さらに、わが国のあらゆる建造物に課せられた耐震性に鑑みて、「ライト館」と同様、Dの鉄筋コンクリート造に、Bの大谷石を張っている。工法では及ばずとも、この石の質感は、レリーフ装飾と、Cの精神性を表すことに適していたのである。

「カトリック松が峰教会聖堂」の設計者マックス・ヒンデル 4)は、関東大震災の爪痕が生々しい1924(大正13)年3月に日本を訪れ、最初の三年半は札幌、1927(昭和2)年10月~1935(昭和10)年5月の間は、横浜を生活・仕事の拠点とした。それ以前は、第一次世界大戦期の従軍生活を挟み、1900年代から来日まで、母国スイスと、オーストリアのウィーンほかヨーロッパ各地で、製図工、複数の設計事務所の所員、フリーランスの建築家として活動した経験を有する。

よって、Cに則る西洋のアカデミックな建築教育、近代建築の幕開けとなった新芸術 5)、ひいてはDの洗礼を一身に受け、歴史と時代の潮流に明るい実務の人だったことは、想像に難くない。

事実、札幌・横浜時代を通じて、学校・付属施設、病院、宗教施設、住宅、ヒュッテ(山小屋)を手がけ、さまざまな様式・素材・構造を試みた。数が多いのは学校・宗教関係で、天主公教会(ローマ・カトリック教会)を中心に、札幌、函館、十和田、宇都宮、東京、新潟、金沢、名古屋、岐阜に聖堂や修道院を遺し、「松が峰」は代表作にほかならない。学校、病院についても、宗派を問わず、キリスト教を奉じる運営母体の施設に占められる 6)。

一連の聖堂を設計するにあたり、ヒンデルが典拠としたのは西洋中世、ほとんどの場合、ロマネスク(11~13世紀)の建築言語だった。とりわけ完成度が高い「松が峰」においては、「ロマネスク・アーチ」と呼ばれる半円形アーチを構造、空間の分節、開口部の意匠や屋内外の装飾に多用し、建物の東側に玄関と四層の双塔、聖地エレサレムの方角を示す西端に主祭壇と内陣を設える 7)。アーチ以外のモティーフによる石のレリーフが、ロマネスクの文様に即しているのは言うまでもない。

何よりも注目すべきは、前述の通り、大谷石の物性と造営技術では、天井が非常に高く、柱が少ない聖堂らしい大空間や、多層の塔屋を建てるのが不可能なため、躯体を鉄筋コンクリート造・石張り、屋根は木造・鉄板葺きとしたことだろう。特に、石を積み上げ、面状のアーチを掛ける、交差させる、組み合わせて隙間を石で埋める、という「ヴォールト天井」は、石選び、材の加工から建造まで、西洋中世の石工の知見なくして施工は無理だった。

それが近代の石の街で達成できないのは、いたし方がない。また、完全にDを標榜する鉄・ガラス・コンクリートの白い聖堂としなかったのは、特殊な用途と、施主 8)の意向を重んじた結果に相違ない。しかし、本家本元のロマネスクの大伽藍、たとえばドイツ、シュパイアーの「聖マリア・聖ステパノ大聖堂」(竣工1061年、砂岩造。全高72メートル、床からヴォールト天井までの高さ33メートル)との比較で、「松が峰」が組積造、真のヴォールト天井ではなく、はるかに小規模(全高27メートル)だからと言って、この建物を「純然たる石の聖堂とは似て非なるもの」と捉え、軽んじてはならない。

なぜならばヒンデルは、「松が峰」に先行する1927(昭和2)年の「カトリック新潟教会聖堂」(ロマネスク・ルネサンス・リヴァイヴァル)では、鉄筋コンクリート造を主体に、部分的に木造を用いることで、箱形に多面体が連なり、優美な五層の双塔がそびえる外観、白い漆喰に木のアーケードが印象的な明るい内部空間を生み出したからだ。一方、1931(昭和6)年の「金沢聖霊修道院聖堂」(ロマネスク・リヴァイヴァル)は、木造平屋建て、三層の塔屋が一つと造りが小ぶりな代わりに、屋内の柱に黒漆や金箔を施し、床を畳敷き 9)にするなど、それぞれの事情、地域性を考慮した創意・工夫を図っている。

そうしたなかで、「ライト館」にゆかりの石の街でヒンデルが発揮した手腕は、建築の構造・素材・様式は固より、宗教観、時代性に照らして、当然ながら大谷石文化としても正しく、かつ最もロマネスク的で、ヒンデルの聖堂群の集大成になった、と結論できる。ちなみに、「カトリック松が峰教会聖堂」をかたちづくる石は、「ホテル山」こと旧・東谷採掘場の産である。材と手わざの結びつきに鑑みて、「ライト館」の現場を経て、石の里へ帰郷した無名の職人たちが工事に協力したとしても、何ら不思議はない 10)。

「松が峰」と並ぶもう一つの珠玉の祈りの空間、「日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会礼拝堂」に関しては、次回で詳しく論じたい。


図1 カトリック松が峰教会聖堂 東南側外観
設計=マックス・ヒンデル|竣工1932年
2019年、筆者撮影


図2 カトリック松が峰教会聖堂 150分の1模型
東・北立面設計=マックス・ヒンデル|竣工1932年
制作・撮影=2016年、模型工房「さいとう」


図3 カトリック松が峰教会聖堂 内部 シャンボン大司教の司式による聖別式の様子
設計=マックス・ヒンデル|竣工1932年
撮影=1932年11月23日、カトリック松が峰教会百周年記念誌編集委員会 編(1988)『カトリック松が峰教会宣教100年の歩み』 宇都宮:カトリック松が峰教会 より


図4 カトリック松が峰教会聖堂 内部
二階からアーケードを見下ろす
設計=マックス・ヒンデル|竣工1932年
2018年、筆者撮影

(注)
1. 着工1919年・秋、竣工1923年・夏、同年9月1日の昼前、開業祝賀会の準備中に関東大震災が発生。被害は軽微で、翌日から被災者に施設の一部を無償提供、炊き出しを行ったほか、外国公館、通信社などの避難先にもなった。1967-68年に解体、1985年に博物館明治村へ一部移築・復元される。設計=フランク・ロイド・ライト。
2. 竣工1928年、1945年7月の宇都宮大空襲に耐え、戦後も商工会議所として機能したが、1979年に解体、1985年に栃木県中央公園へ一部移築・復元される。設計=安 美賀(やす みよし)。
3. 竣工1933年、「松が峰」とは対照的に、1945年の宇都宮大空襲で被災を免れ、現在に至る。設計=上林敬吉(かんばやし けいきち)。
4. 1887年、スイスのチューリヒに生まれる。1903年、下級ギムナジウムを卒業し、母国の建築設計事務所で製図工となる。1907年以降、国内外の事務所で研鑽を積む。1914年、第一次世界大戦の勃発に伴い、スイス軍で兵役につく。1916年、除隊となり、チューリヒに自身の事務所を設立。1917年、オーストリアのウィーン、1921年、同国チロル地方へ移り、建築家として活動。1924年3月、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)予科ドイツ語講師のハンス・コラー夫妻(義弟・実妹)の勧めで来日し、札幌に居住。1927年10月、横浜へ移り、事務所を設立。1935年5月、事務所を解散。1937年、日独合作国策映画「新しき土」(監督:アーノルド・ファンク、伊丹万作)に出演。1940年、離日し、シベリア経由でドイツのベルリンに入る。1941年以降、ベルリンでナチス・ドイツ広報部の仕事に従事。1945年、ベルリンを離れてスイスを目ざし、バヴァリア地方のレーゲンに至るが、帰国できないまま終戦を迎える。戦後、レーゲンの赤十字メンバーとして活動。1950年、レーゲン職業学校の校長に就任。1952年、同校を退職。1960年、レーゲンで事務所を共同設立。1963年、同地で逝去。
5. イギリスのグラスゴー派、フランスやベルギーのアール・ヌーヴォー(新しい芸術)、ドイツ語圏のユーゲントシュティール、分離派やウィーン工房、イタリアのスティーレ・リベルティ、スペインのモデルニスモなどを総称する19世紀末~20世紀初頭の装飾様式。部分的に時代が重なり、先行するアーツ・アンド・クラフツ運動とは異なり、工業化社会、機械文明、都市文化を肯定し、歴史・折衷主義から脱却することで、モダニズムへの橋渡しとなった。
6. 現存する建物としては、1926年の「北星学園百年記念館」(旧・北星女学校女性宣教師住宅。基本設計=ウィリアム・メレル・ヴォーリズ。札幌のプロテスタント系学校)、1931年の「聖母病院本館」(旧・国際聖母病院。東京のカトリック系病院)、1932年の「上智大学1号館」(旧・上智大学新校舎。東京のカトリック系学校)、同年の「南山大学ライネルス館」(旧・南山中学校本館。名古屋のカトリック系学校)が挙げられる。
7. ロマネスクの聖堂では、ヨーロッパから見て東のエレサレムの方角、すなわち建物の東端に主祭壇と内陣、これらに向かって祈りを捧げる信徒に開かれた玄関は、西側に置く。よって西側は、キリスト教会としての象徴的な正面性を表すために多層部とし(西正面)、高い塔屋を築いた。「松が峰」の場合、このことを踏まえ、日本から見たエレサレムの方角を考慮した「東正面」としている。
8. その頃の「松が峰」の聖職者は、フランス生まれのイッポリト・ルイ・オーギュスト・カディヤック神父(1859~1930年)だった。パリ外国宣教会の派遣により、1882年に来日した神父は、1888年、宇都宮天主公教会を設立する。ただし、当初の教会は川向町にあり、1895年に現在地の司祭館へ移る。隣接する旧・聖堂が竣工したのは1910年で、木造・平屋建ての質素な建物だった。1927年になると、本格的な大聖堂の実現に向けて活動を始め、鋼材をフランスから取り寄せるほど心血を注ぎながら、1930年、天に召される。現・聖堂の着工は、翌1931年である。
9. 「松が峰」の聖堂も、竣工当時は畳敷きだった。
10. 施工は、全体統括が宮内建築事務所(横浜)の宮内初太郎(1892~1957年)、石工棟梁は屋号「マルタ」(宇都宮市小幡)の安野半吾(1872~1951年)である。


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