今からおよそ1,500万年前,現在の大谷付近は海岸に近い海底でした。西から北には陸地があり,東から南には海が広がっていました。
陸地には火山がありました。ある日,そのうちの一つが大噴火を起こして大量の軽石を噴出し,軽石を主体とする火砕流が発生しました。火砕流は海岸を超えてはるか沖合まで広がっていきました。この火砕流に伴う堆積物が大谷石の元となるもので,噴出した軽石や火山灰の他,火山体の一部であった熔岩や火山砕屑物の破片が含まれていました。この堆積物を「大谷石の元の堆積物」と呼ぶことにします。
この頃,日本列島は全体として沈降する状況にありました。「大谷石の元の堆積物」を乗せた地盤も沈降し大谷付近では水深2,000m以深に達します。「大谷石の元の堆積物」の上には泥や砂が積み重なりその厚さは1,000mほどになっています。この間およそ500万年。上に乗った物の重さと時の長さで,「大谷石の元の堆積物」は火山灰や軽石が互に接着し「石」の状態になりました。
これを「大谷石の層」と呼ぶことにします。
やがて海底は上昇を始め,「大谷石の層」の上に積み重なっていた砂岩や泥岩は海面上に顔を出し,順次削り取られていきました。
今から500万年ほど前には「大谷石の層」も地表に顔を出しました。ただし,この段階では,「大谷石の層」の分布する位置は現在とは大きく異なっていたと考えられています。
その後も沈降や上昇を繰り返し,およそ50~70万年前には,西には足尾山地に続く山並みが東には八溝山地に続く山並みが南北に連なりその間には低平地や丘陵からなる中央低地が広がると言う,現在の栃木県の地形分布の基本構造ができ上がっていました。この時の中央低地は那須から益子・佐野までを厚い砂礫層が埋め立てた広大な平地でした。大谷はこの平地の一部,西の縁の部分になります。「大谷石の層」はこの砂礫層の下にあり,東からやや南へ6度から8度ほど傾いた(堆積当時水平であった面が東に向かって低くなる)状態になっていました。「大谷石の層」は大谷から宇都宮丘陵を経て更に東と南の地下に連続して分布していましたが,西から北の方では削り取られてしまっていました。削り取られた部分には「大谷石の元の堆積物」が堆積する基盤であった地層が顔を出し,更に西ではもっと古い地層まで地表に現れるようになり,それらは現在の多気山(たけさん)や古賀志山(こがしやま)や半蔵山(はんぞうさん)に対応する高まり(山地)となっていました。大谷の西や北の高まりから流れ出た水は砂礫層の上を幾筋かの川となって大谷付近を流れました。その川床の高さは現在の標高で250m程度の位置にあったと考えています。その時の流れの一つが現在の姿川の上流部に相当する流れで,御止山(おとめやま)山頂よりも50m余り高い位置を流れていたと想定しています。
その後川床は少しづつ下がり砂礫層を削り,やがては「大谷石の層」やその上下にあった地層をも削り込んでいきました。
10万年ほど前になると大谷付近にあった砂礫層はほぼ全て削り取られ,「大谷石の層」やその上下の層も大きく削られてしまいました。大谷の山や栃木県庁から北に続く宇都宮丘陵は削り去られずに残った部分です。大谷と宇都宮丘陵との間には現在の田川の前身である川が流れ,幅広い低地ができていました。現在の地表面より5~20m低い標高130~140m程度の位置まで削り込まれた低地です。姿川の上流部に相当する流れは元の流れの位置で下へ下へと削り込みを続け大谷石の山間を流れる谷川となっていました。
およそ7万年ほど前になると大谷付近を流れる川の下刻(下方への削り込み)が止まり,それまで削り込んできた谷(低地)を埋めて砂礫が堆積し広い河原ができました。しばらくして再び下刻が始まります。下刻する川筋からはずれた場所は大水でも水をかぶらない砂礫層からなる台地となりました。この台地の上に火山灰(関東ローム層と呼んでいるもの)が積み重なったものが,現在「宝木台地」と呼ばれている,徳次郎(とくじら)から宝木(たからぎ),雀宮(すずめのみや),を経て小山(おやま)からさらに南に繋がる台地です。大谷の山裾に分布する平坦地の大半はこの台地と同じ時期にできたもので,地下には下刻を免れた砂礫層が分布しています。なお,この下刻の時期に田川の流路は東側に移り現在に位置を流れるようになりました。
このようにして大昔に出来た大谷石を平地の脇で見て,採取することが可能な状況ができあがったのです。
その後も2度ほど下刻の停滞と再開をくりかえしますが谷あるいは低地の幅を少し広げ川底を少し下げる程度で地形的に大きな変化は生じていません。ただし,現在の大谷の自然景観の特徴である切り立った高い崖やオーバーハングした崖はこの時期(2万年ほど前から数千年前)につくられたものです。
付図:大谷周辺の山地および丘陵の分布と河川の流路。山地および丘陵を網目模様で示す。青色の点紋域は十万年ほど前に田川の前身である川が流れていたおおまかな位置である。