大谷千手観音立像 -千手観音像造像の歴史的背景- / 橋本 澄朗(宇都宮市文化財保護審議委員会委員長)

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9世紀前後の下野の社会状況

大谷磨崖仏の中核となる千手観音像が造像された9世紀前後の東国、なかでも下野の社会状況を考えることから始めたい。公地公民を原則に出発した律令国家だが、8世紀後半には政治・経済・社会的にも行き詰っていた。特に、過酷な税の負担、うち続く凶作・災害・疫病と民衆は零落していった。さらに、東国社会に大きな重荷になったたのが、蝦夷の反乱である。宝亀5年(774)の反乱当初は蝦夷同士の対立であったが、宝亀11年(780)伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)が陸奥支配の拠点である多賀城を占拠・放火するに及び大規模な反乱に発展。そして蝦夷の阿弖流為阿弖流(あてるい)[1] の登場で反乱の鎮定は国家的課題となった。それを端的に示すのが、桓武朝の政治課題を論じた延暦24年(805)の徳政争論である。造作(平安京造都)と共に軍事(蝦夷征討)の是非が取り上げられたのである。国家による度重なる征夷政策は東北地方に隣接する下野の民衆に大きな負担を強いることとなり、下野社会に暗い影を落すことになる。

 

下野の観音信仰

千手観音像造像で注目したいのが、前述のような不安と怨嗟に満ちた民衆が、豊穣と慈愛そして母性の象徴である観音に救済を求めたことである。そんな下野の観音信仰の一端を具体的にみていこう。

まず、取りあげたいのが男体山の補陀洛山(ほだらくさん)信仰。補陀洛山とは観音菩薩が降臨する山とされ、日本では和歌山県那智山や栃木県日光男体山が補陀洛山とされている。ここで注目したのは空海の「勝道碑文」で、碑文には勝道が神護景雲元年(767)に宗教的情熱で人跡未踏の補陀洛山である男体山の登攀(とうはん)に挑戦したことが記述されている。そこに下野での観音信仰の広汎な広がりを確認できる。

次に取りあげるのが、宇都宮市西刑部の大関観音堂の聖観音菩薩立像(図1)。西刑部は大谷からは市街地を挟み東約1キロ、市の南東部に位置する。本像を納めた簡素な堂は、鬼怒川の低地を望む岡本台地の東端部に所在する。本像は像高246.7センチの巨躯。榧材(かやざい)の一木造りで、背は内刳、側面・両肩・手首・足先・裾部は寄木している。大きな宝髻と肉付きのよい丸顔、前方を直視した切れ長の両眼に下顎の張った面相、肩幅が広く盛りあがった胸など偉丈夫な印象を受ける。東国では類例の少ない平安時代前期の大形な観音像である。下野での観音信仰の一端を示す遺品と考えられる。


図1 大関観音堂の聖観音菩薩立像(写真提供:宇都宮市教育委員会)

そして、観音像を納めたとも考えられる遺構が発見されている。それが宇都宮市西川田に所在する辻の内(つじのうち)遺跡の双堂[2]建築。本遺跡は大谷の南南東約8.5キロ、姿川左岸の台地西縁に形成された奈良・平安時代の集落跡で、宇都宮環状線の道路建設に伴い発掘調査が実施された。注目したのが、図示した南北に近接して発見されたSB―260(桁行5間×梁行2間〔けたゆき5けんかけるはりゆき2けん〕)とSB―261(3間×2間の身舎に桁行5間×梁行4間の四面庇〔しめんびさし〕が取り付く)の2棟の掘立柱建物跡。出土遺物から8世紀後葉から9世紀代の建物跡と推定される(図2)[3]。この建物跡は双堂建築と呼ばれ、仏像を納めた仏堂(SB―261)と民衆が礼拝する礼堂(SB―260)と考えられる。双堂建築は東大寺三月堂に代表されるような雑蜜(ぞうみつ)[4]系修法による建築遺構の可能性が考えられ、観音信仰の進展と共に東国でも相当数確認されている。本遺跡の双堂建築も、このような歴史的状況下に出現したと理解できる。仏堂に如何なる仏像が。観音像と考えたいが、確証はない。

図2 辻の内遺跡 SB-260, 261(芹澤他1992より)

最後に、取りあげたのが上三川町に所在する多功南原遺跡(たこうみなみはらいせき)の墨書土器(ぼくしょどき)[5]。本遺跡は下野薬師寺に近接した奈良・平安時代を中心とした豊かで先進的な集落跡である。本遺跡で注目したいのは10区と11区から出土した「千」と記された大量の墨書土器。10区からは23点、11区からは58点が出土。墨書土器は8世紀後半から9世紀後半まで一定の年代幅がある。墨書土器と共に托鉢用の土師器鉄鉢状椀・燈明皿、須恵器短頸壺・獣脚付短頸壺等の仏教系遺物が出土している。詳細は割愛するが、堂と想定される建物跡(SB-118・119)も発見されている。これらの事実から下野薬師寺に近接した村落に、千手観音像を納めた堂が長期間存在したと推定したい。

 

千手観音像造像の歴史的意義

千手観音像造像の卓越した技術をみると、律令国家の庇護や援助、なかでも下野薬師寺との関連が考えられる。大谷と下野薬師寺の関係は、大谷を含む宇都宮北部が下毛野(しもつけ)氏の重要な支配領域となり、下野薬師寺の造瓦所が市北部の水道山(すいどうやま)瓦窯になったことから始まる。そして、姿川の上流、里山の異界ともいうべき大谷周辺は下野薬師寺の山林修行の拠点となったのである。

そして第一龕(がん)に、金色に輝く優美な千手観音像が完成する。なぜ、千手観音像か。多面の十一面観音と多臂(たひ)の不空羂索(ふくうけんじゃく)観音を統合して成立した千手観音こそが、観音信仰の一つの到達点である。それは下野における観音信仰の実態からも跡付けることができる。千手観音像の完成と同時に、観音像を覆う本堂や観音を礼拝する礼堂が建立されたと推測される。それは東国では希有な洞窟寺院、大谷寺の誕生を意味する。下野薬師寺の山林修行の拠点から東国の観音信仰の中心地へ。二つの要素を内蔵して洞窟寺院大谷寺が成立する。それは東国天台宗及び道忠教団の拠点であった栃木市小野寺の大慈寺と並ぶ、下野仏教史を彩る重要な事件であった。

 

[1] 八世紀後半~九世紀初頭の陸奥国胆沢地方の蝦夷の首長。
[2] 仏堂形式のひとつ。本尊を安置する本堂の前に礼拝や儀式のための別棟の礼堂を設けているもの。
[3] 阿部茂・芹澤清八・熊谷淳(1992)『辻の内追跡・柿の内追跡』栃木県埋蔵文化財調査報告第127 集より引用、一部編集。
[4] 奈良時代にはあったと考えられる初期の密教。
[5] 土器に文字や記号を墨で書いたもの。


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