大谷石との出会い・大谷石の風が吹いてくる / 塩田 潔(NPO法人大谷石研究会理事長)

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私と大谷石の出会いは、幼少時に遡る。多分に4~5歳の頃だったと思うが、何か悪戯をしたか、母に甘えて野良仕事の邪魔をしたかは定かではないが、父親に石蔵に閉じ込められ泣き喚いていた記憶が何度かある。数時間経って決まって鍵を開けてくれるのが母親であった。石蔵の中の暗い闇の空間と独特の異臭は今でも鮮烈に覚えている。

栃木県民、宇都宮市民の石蔵を所有している家に育ったかつての子供たち(特に男児)にとって石蔵に閉じ込められた経験のある人は少なからずいると思う。今になって思えばこのような“洗礼”を受けたことは、栃木男児にとって誇りだと思っている。(聞くところによればどうも次男、三男に多いようだ)。

かなり後になるが、建築を志し社会人になって20代の後半、約1ヶ月に渡り欧州旅行をする機会があり、ギリシャ、イタリア、スイス、フランス、ドイツ、イギリス、デンマーク等の歴史的建築物及び現代建築物を見て回る中、当時インターナショナルスタイルと持て囃されていた英国の建築家ジェームズ・スターリングのレスター工大(現レスター大学)工学部と図書館を見た時、これがインターナショナルスタイルかとショックを受けた。日本で我々が目にするのは雑誌等に風景が切り取られ、建築物しか見えないのである。それを評論家や有名建築家が絶賛する文章がついて回る。いざ現地に行って周りの風景の中に溶け込んでいる建物を見ると、土地の素材で、土地の気候、風土を十分考慮し、しっかりとその地に根を張ったヴァナキュラー(土着的)なものとしての印象が深く、新鮮に感動した記憶がある。後々の事であるが、私はその土地の素材を最大限に使い、ヴァナキュラーなものを追求していくと、その中にインターナショナル(グローバル)的な可能性(普遍性)が潜んでいるのではないかと思えるようになった。果たして自分の周りに何があるのだろうかと考えた時、確かなものとして「大谷石」があった。

古代からの「もの」づくりは、当たり前のように近辺の山や河原で拾ってきた「石」や地面や山の斜面を掘った「土」、森や林で採ってきた「木」や「竹」や「草」であったはずである。そして、後々その中に「大谷石」があった事は私たちにとって大変幸運であった。

その「大谷石」が私たちの生活文化を支え、日本の近代化産業を支え、近現代の建築の素材として一時代を築き、産業として盛衰があったものの、今も“貴重な天然の素材”として存在感を保っている事は、大変喜ばしく又誇れる事である。

20世紀末まで、日本は高度成長を続け、オイルショックがあったもののバブル期を迎え、ひたすらスクラップ&ビルドの時代が続いた。やがてバブルが崩壊し、空気が淀んでしまったような21世紀に入った。世の中どうなるのだろうと思いつつ、周りを見渡すと、街のあちこち、しかも街並みの奥の方にひっそりと佇む大谷石の「石蔵」が目に入ってきた。そのようなものが気になる時間を持てるようになったのだろう。

それらを調査してみよう、そう思ってアクションを起こした。建築士会宇都宮支部の十数人のメンバーが2000(平成12)年、2005(同17)年の2度に渡り、当時私は街づくり委員長として、又支部長として市中心部、そして周辺部の調査を行い、400棟近い石蔵等大谷石建造物の存在を確認した。その中に松が峰教会前の市所有の「旧公益質屋」の石蔵があった。

その時、建築士会宇都宮支部として「教会の見えるカフェ・レストラン」への再生を提案し、メディアを賑わすことになり、紆余曲折があったものの、8年後一般公募の結果、三友学園の管理会社シェフズが「ダイニング蔵 おしゃらく」としてオープンにこぎつけ、今も市民の皆様に親しまれている。

その頃、任意の団体「大谷石研究会」が発足し(筆者も設立メンバーとして名を連ねる)、「石の蔵」や「花野(現ムナカタ)」が石蔵活用の飲食店やギャラリーとして蘇り、又、ダンサー妻木律子氏が米蔵を見事にダンススタジオに変身させ、メディアも盛んに取り上げるようになった。それぞれに相談した訳でもなく、自然発生的に「大谷石の風」が吹いて来たのである。その風を起こしたのは“石蔵再生”や“大谷石文化の掘り起こし”に熱き思いをかけた「宇都宮を愛する幾多の市民」であったことを忘れてはならない。

それから十数年の歳月が流れ、石蔵を活用した飲食店、カフェ、ギャラリー等の店舗は市内に十数軒にもなった。

石の蔵(2001年)


花野(現 ムナカタ)(2001年)


サヴォイアsー21(2009年)


ダイニング蔵 おしゃらく(2011年)


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