大谷石の近代建築 ―戦後日本のヴァナキュラー・モダン― / 安森 亮雄(千葉大学大学院工学研究院教授)

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大谷石を用いた近代建築としては、フランク・ロイド・ライトが設計した旧帝国ホテル(大正12年)や山邑邸、その弟子の遠藤新による旧甲子園ホテルが全国的に知られている。また、宇都宮では、昭和初期のカトリック松が峰教会や、聖ヨハネ教会、大谷公会堂が残されている。こうした第二次世界大戦以前の建築を経て、戦後日本の復興期には、民主的な社会と文化の構築に向けて、日本の近代建築を担う建築家達による新たな文化施設が生み出された 注1)。

前川國男が設計した旧紀伊國屋書店(昭和22年,1947)

ライトと並ぶ近代建築の巨匠であるル・コルビュジエの下で最初に学んだ日本人、前川國男(1905-1986)は、ヨーロッパからモダニズム(近代主義)を伝えた建築家である。紀伊國屋書店は、戦前に新宿で創業したが、戦災で焼失し、終戦の2年後に新築された(図1) 注2)。戦後すぐに文化の復興を目指した社長の田辺茂一と、モダニズムの思想のもとに建築・都市の復興を目指した前川國男の熱意が重なった建物である。

店舗の外観は、水平性を強調した庇とバルコニーが付き、ガラスのカーテンウォールの開放的な正面であり、モダニズムの建築言語が踏襲されている。大谷石は、前面道路から引き込まれる敷地境界壁、建物正面の1階壁面、さらに、店舗内部の壁面や展示什器に用いられている。これらの大谷石で囲まれた前庭が、まだヤミ市の残る通りの雑踏から離れた文化的な雰囲気を醸し出していた。サインが付く上部壁面を支える列柱は、コルビュジエが提唱したピロティ(柱のある外部空間)を、戦後の資材不足の中で木造の合わせ柱で実現したものである。こうした、西洋のモダニズムの受容と、都市から建物内外までをつなぐ空間構成に、大谷石が大きな役割を果たしたのである。


図1 旧紀伊國屋書店  文4)

坂倉準三が設計した旧神奈川県立近代美術館(昭和26年,1951)

ル・コルビュジエの事務所に前川と入れ替わりで入所した坂倉準三(1901-1969)は、戦後、日本初の近代美術館である神奈川県立近代美術館 注3)を設計した(図2)。鎌倉の鶴岡八幡宮の境内に建ち、中庭をもつ回廊形式の美術館には、師のコルビュジエの「無限成長美術館」と、坂倉が手掛けた「パリ万国博覧会日本館」(1937)の影響を見ることができる。1階のピロティと、2階の白色のヴォリュームの組合せは、やはりモダニズムの典型的な構成である。

ピロティは、鉄骨の柱となっており、柱間のブレース(斜材)を覆うように大谷石が用いられ、ガラスブロックと組み合わされて、中庭から回廊に光を取り入れている。大谷石は、1尺×3尺(303mm×910mm)の定尺で用いることが多いが、ここではガラスブロックの寸法に合わせ、通常より低い200mmの高さとしている。大谷石は、火山灰が固まった凝灰岩であるため、多孔質(ポーラス)で軽い性質をもつが、ガラスと一緒に積むことでさらに軽快な印象を与え、遠景からは、2階の白いヴォリュームとの対比と大地との連続性を与えている。


図2 旧神奈川県立近代美術館(現 鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム)

前川・坂倉と吉村順三が共同設計した国際文化会館(昭和30年,1955)

前川國男、坂倉準三に、吉村順三を加えた3名の建築家は、共同して国際文化会館を設計した。国際文化会館は、戦後、日米関係の再構築や国際文化交流を目的として、ロックフェラー財団の支援により設立され、三菱財閥の岩崎小彌太が所有していた麻布の敷地に建設された(図3) 注4)。吉村順三(1908-1997)は、ライトの弟子であるアントニン・レーモンドの設計事務所で学んだ建築家である。

高低差のある広大な敷地には、日本庭園(7代目小川治兵衛 作庭)があり、1階の大谷石が地面から立ち上がり、アプローチの駐車場からの騒音と視界を防いでいる。この大谷石も高さ約200mmとスレンダーで、水平に目地が通り、平刃ツツキの繊細な仕上げがされている。2階はプレキャストコンクリートに檜の建具が用いられ、近代と日本の素材が軸組工法のように巧みに組み合わされている。


図3 国際文化会館

谷口吉郎が設計した吉川栄治記念館(昭和52年,1977)

谷口吉郎(1904-1979)は、戦前に渡欧し、ドイツで新古典主義の建築家シンケルに影響を受けた後、モダニズムと日本の伝統との融合を目指した建築家である。谷口は、初期の作品でも、大谷石を用いているが、作家・吉川英治の青梅の自邸の敷地内に建てられた記念館 注5)を晩年に設計している(図4)。

傾斜地に建つ平屋の建物で、玄関ホールの壁面に使われた大谷石は、やや小ぶりで、長手と短手が交互に積まれている。前述した建築のように水平性を強調せず、和風の切妻屋根の下で、石の積み方にリズムを与え、床の乱尺の鉄平石との対比も作り出している。谷口は、博物館明治村の初代館長となり、ライトの旧帝国ホテルが昭和43(1968)年に解体された際に移築保存に貢献した。


図4 吉川英治記念館

日本のヴァナキュラー・モダン ―接地性と日本的感性―

ここまで見てきたように、戦後日本の近代建築家は、復興期から続く文化施設の設計に大谷石を用いた。これらは、いずれも関東の建物で、戦後の都市基盤の整備で用いられた大谷石は、手に入り易かったと考えられるが、建築意匠としては、コルビュジエに代表される近代建築の言語を引き継ぎつつ、大谷石は、1階で地面と連続しながら、他の素材と組み合わせて用いられている。これは、大谷石が、土と石の中間のような素材の特性を持つことで、大地と建築を繋ぐ接地性に優れ、孔に空気を含むことで和紙のような暖かさがあり、どこか日本的な感性を与えることに起因すると考えられる。こうした大谷石の性質が建築家達の感性に触れたことにより、ヨーロッパから学んだ自律的なモダニズムが、日本に受容されヴァナキュラー(土着的・地域的)な発展をする際に、大きな役割を果たしたと考えられる。

 

注1) 本稿は、筆者による参考文献1〜3の内容の一部を元に、新たな内容を加えてまとめたものである。また図版は、参考文献4以外は筆者の撮影による。
注2) 紀伊國屋書店の店舗は、1963年に、同じく前川國男の設計によって、現在の店舗に建て替えられた。
注3) 神奈川県立近代美術館は、借地契約満了により2016年に閉館した後に、鶴岡八幡宮に譲渡され、2019年に鎌倉文華館鶴岡ミュージアムとして再オープンした。DOCOMOMO(Documentation and Conservation of buildings, sites and neighbourhoods of the Modern Movement)日本の近代建築20選。神奈川県指定重要文化財。
注4) 国際文化会館の経緯は、参考文献5を参考にした。建物は、解体建替が検討されたが、2005年に免震化と機能改善の工事が行われ保存再生された。DOCOMOMO日本の近代建築100選。
注5) 吉川英治記念館は、吉川英治国民文化振興会により運営されていたが、2020年4月に青梅市に寄付され、 同年9月に市の施設として再オープンした。

 

参考文献
1) 塚本琢也,安森亮雄他:大谷石を用いた現代建築作品における意匠表現に関する研究 栃木県宇都宮市を中心とする大谷石建造物に関する研究(11),日本建築学会大会学術講演梗概集,建築歴史・意匠,pp.517-518,2017年9月
2) 安森亮雄:大谷石の産業・建築・地域から日本の「石のまち」の文化へ,日本遺産「大谷石文化」石のまち宇都宮シンポジウム予稿集(担当執筆),2019年12月
3) Akio Yasumori and Motosumi Kobayashi: Modernism and Regionalism in Japanese Local Stone Buildings, 16th International DOCOMOMO Conference 2020 (postponed to 2121) (scheduled to be published),
4) 出典(外観写真とアイソメ図):新建築1947年8月号
5) 特集2 建築ソリューション 国際文化会館 保存・再生・検証へ,LIXIL eye,pp.15-37,2015年6月


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