石のまち―素材を通した都市間ネットワーク― / 安森 亮雄(千葉大学大学院工学研究院教授)

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大谷石は、太古の海底火山の灰が固まった凝灰岩である。日本は火山国であるから、実は、こうした石は日本各地にあり、特に、大谷石を含むグリーンタフ(緑色凝灰岩)地帯は、日本列島の広域に分布している。石を産出する石切場があり、その石を使った建築がみられる「石のまち」が、各地に存在しているのである(図1)。

こうした石の産地では、地産地消で石材が使われるとともに、出荷された消費地との関係や、産地間で採掘技術の伝播がみられる。筆者は、大谷石に始まり、近年こうした「石のまち」の調査を展開しており、ここでは、関東近県で東京・横浜を主な消費地とする軟石 注1)の「石のまち」を紹介し、大谷石との関わりを考察する 注2)。


図1 石のまち(日本の代表的な石の産地)

房州石(千葉県富津市金谷)

関東で昔から使われてきた石として、房州石(ぼうしゅういし)(図2)があり、大谷石と同じ凝灰岩に属する。千葉県富津市金谷(かなや)が産地であり、東京湾に面した鋸山(のこぎりやま)に石切場がある。鋸山は、地殻の変動による褶曲(しゅうきょく)構造が浸食してできたもので、切り立った岩肌とギザギザの稜線の形から名付けられた。奈良時代に開山した日本寺があり、信仰の対象でもあった。

石の採掘は江戸時代中期に始まり、海づたいに舟運で東京(江戸)や横浜へ運ばれ、品川台場や、横浜港開港、外国人居留地の建設などの都市の近代化に大きな役割を果たした。大谷石は、鉄道が敷設された大正期から生産量が増え、トラック輸送で首都圏の高度成長を支えた昭和40年代が最盛期である。その前の時代に舟運で運ばれたのが房州石であり、海沿いの険しい山に石切場がある理由がそこにある。

石切場は、上部から下部に段々に広げて崩落を防ぎ、良質の地層を横に掘り進む形状となっている。元々は手掘りであったが、昭和30年代に大谷で開発された機械掘りの技術と機械が、房州石にも伝えられた。山腹の石切場からは、樋道(といみち)や車力道(しゃりきみち)と呼ばれる斜面沿いのスロープで浜まで降ろして出荷された。筋模様が入る「井桁目(いげため)」や、ピンクがかった「桜目(さくらめ)」などの上石(じょうせき)は表情に富んでおり、こうしたテクスチャーのある石蔵や石塀が現存し、まちの景観の一部となっている。

採掘は昭和60(1985)年に終了したが、鋸山はネイチャーミュージアムとして公開され、点在する石切場を巡りながら登山でき、ロープウェイも整備されている。大谷でも石切場の活用が進められているが、採掘終了後の観光化が進んでいる「石のまち」である 注3)。


図2 房州石:石切場跡(鋸山)と石蔵

伊豆石(静岡県伊豆半島)

関東で使われたもう一つの代表的な石として、伊豆石が挙げられる(図3)。伊豆半島は、海底火山の噴火による陸地が、プレートの移動によって本州に衝突してできた。その半島の東西で石が産出し、主に東部で採石される硬い安山岩は、古くは江戸城の石垣にも使われた。また、主に西部から南部では、大谷石と同じく比較的軟らかい凝灰岩が産出した。伊豆石は、やはり舟運で、相模湾を越えて東向きに東京(江戸)・横浜に運ばれたが、同時に、西向きに駿河湾に面した浜松・清水・沼津にも運ばれ、これらのまちにも石蔵が多く存在する。こうした物資運搬には、明治期まで存在した廻船が大きな役割を果たした。明治の近代化・都市化で東京・横浜で木材需要が高まり、天竜川の上流で産出する木材(天竜杉等)を東京に運んだ廻船が、帰りに、船荷のバランスと取るために、伊豆石を積んで帰ってきたのである。

石切場は、やはり海に面した斜面に位置する。良質な地層を目がけて、人が入れる高さで垣根掘りし、そこから平場掘りで一段ずつ掘った跡が残るのは、大谷と同じである。垣根掘りの高度な技術は、伊豆石の職人によって、明治末期に大谷に伝えられ、それによって、内陸の大谷石も産出量が増加していく。こうした石切場の一つである室岩洞(むろいわどう)は、昭和29(1954)年に採掘が終了したが、ジオパークとして整備され、採掘の痕跡を見ることができる。

伊豆石の建物としては、松崎市や下田市で石蔵や石塀を見ることができる。松崎では、左官業が盛んであったため、漆喰目地のなまこ壁の町家が多いが、南下した下田では、2階をなまこ壁、1階に伊豆石を貼った蔵がある。いずれも防火性を高めるための外壁仕上げであり、それらをハイブリッドにした組合せに、素材と技術の伝播を読み取ることができる。また、江戸末期には、海防に向けた鉄砲製造のために韮山反射炉が築造されるが、そこでも、上部の耐火レンガとともに、基礎に伊豆石が用いられている。それを管理した代官であった江川家の住宅の西蔵には、大谷でもみられる石瓦が下屋に用いられている。


図3 伊豆石:石切場跡(松崎市室岩洞)および、なまこ壁と伊豆石の蔵(下田)

このように、関東近県の「石のまち」では、都市化する東京(江戸)・横浜を消費地として、江戸期から明治期までは、舟運によって伊豆石や房州石が隆盛し、大正期から昭和期に陸輸に移行するにつれて、内陸の大谷石に取って代わられた(図4)。さらに、採掘技術においても、高度な手掘りの技術が明治期に伊豆から大谷に伝わり、昭和期には大谷で開発された機械掘りが各地に伝わるのである。「石のまち」では、地層から、産業・技術の発展、都市の成長における都市間ネットワークにおいて、素材を通した広域な文化圏が形成されているのである。


図4 大谷石・房州石・伊豆石の都市間ネットワーク

注1) 岩石の分類にはいくつかの考え方があるが、建築材としてみれば、石の固さによる分類が有効である。圧縮強度や比重によって、主に、軟石と硬石に分けられ、大谷石を含めた凝灰岩は比重が2未満の軟石に属する。
注2) 房州石と伊豆石の産業と歴史については、筆者の現地での聞き取りとともに、下記の文献を参考にした。
注3) 鋸山では、令和元(2019)年の台風15号により登山道が被害を受けたが、復興が進められている。

 

参考文献
1) 日本遺産「大谷石文化」石のまち宇都宮シンポジウム予稿集,2019年12月
2) 金谷ストーンコミュニティ 宮里学,西海真紀,鈴木裕士:五 千葉県富津市の「房州石」,産業発展と石切場 全国の採石遺構を産業遺産へ,日本遺跡学会編,戎光祥出版,pp.71-80,2019年5月
3) 伊豆半島ジオパーク ホームページ,https://izugeopark.org/,2021年3月閲覧
4) 静岡県建築士会 西部ブロックまちづくり委員会:伊豆石の蔵 調査報告,2013年
5) 静岡県建築士会:海の東海道,1993年3月


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