本稿では、大谷のシンボル的な建築物のひとつである旧大谷公会堂(1929年設計、図1)を設計した建築家・更田時蔵(1893年-1962年)を取り上げる。更田時蔵による大谷石の建築作品は、旧大谷公会堂がよく知られているが、実は、宇都宮市南西部の緑豊かな地域にも現存している。それが、本稿のタイトルにもあるT氏邸(1932年設計、図2)である。本稿では、拙稿「大谷石建造物の装飾のデザイン – 石蔵の建築家のデザインの系譜」 注1)に続いて、旧大谷公会堂の装飾のデザインとともに、T氏邸の装飾のデザインにみられる更田時蔵の試みについて論じる。
図1.旧大谷公会堂(1929年、更田時蔵設計)
写真提供=宇都宮市大谷石文化推進協議会
図2.T氏邸(1932年、更田時蔵設計)
写真撮影=大嶽陽徳、撮影協力=所有者
近代栃木の建築家・更田時蔵の設計活動の概要
旧大谷公会堂は、大谷のシンボル的な建築物のひとつである。現在、解体修復の作業が進められており、今後、大谷観光周遊拠点施設として移築される予定で 注2)、これからも大谷の中心的な施設としての役割が期待される重要な建物である。この旧大谷公会堂を設計した建築家が、本稿で取り上げる更田時蔵である。更田時蔵は、1983年に島根県に生まれ、1911年から1913年まで(18歳から20歳まで)早稲田工手学校で学んだ後、民間の設計事務所や地方自治体の営繕関係の部署に勤め、1923年(30歳)に栃木県で最初の建築設計事務所である「更田建築設計監理事務所」を開設したことで知られている 注3)。近代の栃木を代表する建築家のひとりである。
筆者らの研究 注4)によると、1923年に自身の建築設計事務所を開設した直後の数年間は、年5〜10件程度の設計業務を宇都宮市中心に行っていたが、その後の昭和9年〜昭和18年は、年間10件以上の設計業務に取り組んでいた年が多く、栃木県内の広い地域で活動するなど、更田時蔵が最も盛んに活動していたことがわかっている(図3、図4)。本稿で取り上げる旧大谷公会堂とT氏邸は、それぞれ1929年、1932年に設計されていることから、建築設計事務所を開設直後の初期の段階に設計された作品であり、更田時蔵が詳細な設計まで深く関わってデザインされたと推測できる。
旧大谷公会堂にみられる装飾のデザイン
まず、更田時蔵による旧大谷公会堂の装飾のデザインについてみてみよう。旧大谷公会堂は、1929年に、大典記念事業として帝国在郷軍人会城山分会によって建てられた建物で 注5)、大谷石積み石の壁に洋風の小屋組を架けて公会堂の空間が構成されている。この建築作品で最も表現が集中しているところのひとつが、建物正面の装飾のデザインである(図1)。建物正面の付柱には、上部、中部、下部に、正方形や三角形などの幾何学的な模様がデザインされており 注6)、柱の両側に彫られているギザギザ形状の模様で、それら3箇所の装飾をつないでいることが分かる(図5、図6)。そして、こうした装飾のデザインの柱を等間隔に4つ並べることで、建物正面の立面全体をまとめ上げている。こうした幾何学的な模様を秩序立てて並べて、立面全体をまとめ上げていく装飾のデザインの手法は、拙稿「大谷石建造物の装飾のデザイン – 石蔵の建築家のデザインの系譜」で述べた建築家の系譜のものといえ、ここに、建築家としてのデザインの方法を身につけた設計者による建築設計をみることができる。
図5.付柱の中部の装飾
写真撮影=大嶽陽徳、撮影協力=宇都宮市
図6.付柱の上部の装飾
写真撮影=大嶽陽徳、撮影協力=宇都宮市
T氏邸の装飾のデザインにみられる試み
以上から、更田時蔵は、建築家による装飾のデザインの方法論をもって、建築設計を展開させていたことが分かる。そうした観点からみると、旧大谷公会堂の後の大谷石を用いた作品であるT氏邸も、幾何学的な模様をさまざまな部位に施し、それらを関連づけることで建物全体をまとめあげているようにもみえる(図2)。しかしながら、T氏邸の装飾は、それだけでは説明がつかないデザインを持っている。それは、建物正面の窓周りに、西洋の建物の柱を模して象(かたど)られた柱頭の装飾や、2階の窓周りに、日本の木造の建物を模したように造形された石庇の装飾などにみられる(図7、図8)。これは、建築家による装飾のデザインの系譜とは異なる、大谷石蔵の装飾のデザインの系譜の特徴といえるものである。つまり、T氏邸の装飾には、異なる系譜のデザインが同居しているといえる。
図7.正面の窓周りの装飾
写真撮影=大嶽陽徳、撮影協力=所有者
図8.2階の窓周りの装飾
写真撮影=大嶽陽徳、撮影協力=所有者
更田時蔵は、建築家による装飾のデザインの方法論を持ち、大谷石蔵に代表される生きた大谷石の建築文化に触れていた。更田時蔵は、T氏邸の設計において、建築家が培ってきた装飾のデザインの方法論と、地域のなかで育ってきた大谷石蔵の装飾のデザインを接続させようと試みていたのではないか。ここには、地域の建築家に固有の新しいデザインの展開を模索していた姿勢をみることができる。地域に根ざして活動してきたこれまでの建築家の設計活動には、大谷石の生きた建築文化のなかで暮らしている私たちが学ぶべき歴史があるのではないだろうか。
注1)本稿と同じ「大谷石文化学」連載にて掲載。
注2)令和3年2月22日に宇都宮市経済部都市魅力創造課により発表されている。https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/026/463/030224ooya.pdf
注3)参考文献1、2を参照。
注4)参考文献3を参照。
注5)1929年4月8日付けの下野新聞による。
注6)上部の装飾について、もともとは現在の装飾の上に幾何立体の装飾がついていた。
参考文献
1)松井任,岡田義治;栃木県の近代建築,栃木県建築研究会,1981年
2)佐藤公紀;更田時蔵の旧・大谷公会堂 – 旧・大谷公会堂を中心とした更田時蔵の仕事について,大谷石をめぐる来し方と行方 論集,pp.20-21,2015年
3)岩渕達朗,安森亮雄,大嶽陽徳;建築家更田時蔵の設計活動 – 近代のローカルアーキテクトに関する研究,日本建築学会大会学術講演梗概集F-2,pp.805-806,2017年