大谷石採掘が地元農民の生業となるのは、江戸時代に入ってからである。しかし、当初は「農間渡世(のうかんとせい)」といって石山を所有する農民が、家族労働を中心に農業の合間に石を切り出す副業でしかなかった。ところが採掘量が増えるに従い山持は、多くの石工等の職人を抱え石材専業者として組織化された。こうした専業者を大谷では問屋と称した。問屋が成立するのは、江戸時代末期といわれるが、本格的な問屋としての組織と機能を果たすようになったのは、屏風岩石材部が設立された明治中期といわれる。第二次世界大戦後、会社組織へと変わる昭和30年頃まで、大谷石山は問屋が躍動する時代であった。
問屋の経営者は、旦那(だんな)と呼ばれ、従業員には番頭および石切り現場で働く職人がいた。従業員の数は昭和30年(1955)頃、多いところで80人くらい、大抵は20人くらいであったという。番頭は旦那の補佐役で、毎月の石の生産高や販売先の決定、石山の状態の把握、毎日の切った石の本数の荷受帳への記載、職人への賃金の支払い、支払った賃金の記載等重要な役を担った。一方、職人には山先(やまさき)、石切、小出(こだ)し、木っ端(こっぱ)掃き等がいた。山先は現場主任で、職人を取り仕切り、職人の仕事量、賃金等を番頭に報告する等の重要な任務を担った。石切は大谷石を切り出す者をいい、多くは男性であったが、女性がなることもあった。小出しは、切り出した石を背負って集積場まで運ぶ者である。木っ端掃きは石切りの際に生ずる大谷石の削り屑(木っ端)を箒で掃き寄せ、背負い箱に入れて現場外に背負い出す者で、もっぱら女性が従事した。
こうした職人構成が、大正初期に入ると多少変わった。伊豆の職人により垣根掘り(横穴掘り)という新しい技術がもたらされると、落盤等の事故に見舞われるようになった。また、大正9年(1920)に、ウインチ(電動巻上げ機)が導入されると石の運搬が容易になった。その結果、従来の職人に加え落盤の危険を予知する危険士やウインチの操作に当たる石上(いしあ)げ等、新しい職人が登場したのである。
ところで石切になるためには、いずれかの問屋で働く腕の良い職人に弟子入りし、約半年間かけて技術を習得したものである。一人前になった石切職人は、改めて問屋と交渉して働き口を得た。問屋とは契約書類を交わすことなく口約束が普通で、合意後すぐさま石山に入り作業に従事したという。
職人の中には、家を持たない職人がいた。その多くは外部からやってきた職人で、問屋ではそうした職人に対し、社宅を構え提供したものである。昭和初期30人前後の職人を抱えていたある問屋の場合、社宅を2棟構えていた。社宅は木造切り妻杉皮葺きの棟続きの長屋で、一つは3世帯、もう一つは2世帯が入居していた。1世帯当りの部屋数は、6畳と4畳半の2間に勝手がついたもので、井戸、便所は共同使用であった。他の問屋の社宅もほぼ同様であったといい、ともに家賃は無償に近かったともいう。なお、問屋では、社宅を提供する他に、現金や味噌・醤油等を貸したりすることもあったという。
職人の賃金は、石切、小出しともに出来高払いであった。石切の場合は、石切りの難易度に応じ、どの大きさの石を何本切り出したかによって賃金が支払われ、一方小出しの賃金は、運んだ石の本数が基準となる尺角(長さ3尺、幅・厚さともに1尺)の石に換算してどれほどの量になるかにより支払われた。問屋では、毎日、切り出した石の大きさ・本数、運び出した石の大きさ・本数を記帳し、毎月末に締めて賃金を算出し、翌月早々に職人へ現金で支払ったものである。
石山では山の神の祭り、フイゴ祭り、初荷等が行われたが、これらは問屋ごとに問屋が主催したものである。祭りや行事には酒宴が付き物で、費用は一切問屋が負担するのが習わしで、職人たちはこれらを楽しみにした。また、年末には問屋から番頭や職人たちに仕着せとして袢纏(はんてん)が贈られた。問屋に年始の挨拶に行く際は、真新しい袢纏を着て行ったものであり、その後は仕事着に、あるいは山の神祭り等の祝い着となったのである。なお、袢纏の襟には問屋の名前と家印、背には大きく家印が染め抜かれていたので、袢纏を看板ともいった。
同じ問屋の従業員でも番頭や山先の中には、独立して問屋になる者もいたが、職人の多くは終生、問屋に世話になったものである。問屋と従業員との関係には封建的な色合いが濃かったが、一方、問屋と職人との信頼の絆は強く、問屋を中心にあたかも一家をなすような、大谷にはそうした独特な社会が形成されたのである。
炎天下作業に従事する石切と小出し
大谷を代表する旧問屋丸正
問屋から送られた袢纏 家印と屋号が記されている