日本人は、山や川、池、大きな石、大木等に神が宿るという原始的な信仰を持つ世界でも稀な民族である。大谷の石山に働く人々にとって、大事な神様は山の神である。一般に山の神は女性とされ、大変気難しく、もてなせば山の恵みや作業の安全を叶えてくるが、粗末にすると祟り災いをもたらすとされる。鉱山関係者やトンネル工事関係者の間では、ことのほか山の神の信仰が厳しく、作業現場に女性が入ることを嫌った。鉱山での採掘もトンネル工事も大変危険な作業かつ重労働を伴い作業現場であり、こうした関係者にとって事故は山の神の祟りとされた。それ故、山の神が嫌う女性が作業現場に立ち入ることを嫌ったのである。
ところが大谷では、そうした禁忌に関する伝承は極めて薄く、石切りや木っ端掃き等の坑内作業や山の神祭りに女性が参加することが違和感を持たれずに行われた。大谷の石山では、女性が重要な労働力となったことから、作業現場や山の神の祭礼などに対する禁忌が薄い。山の神に対する現実的対応をせざるを得なかったのであろう。
さて、次に大谷の石山における山の神祭りについて紹介しよう。前述したように大谷での山の神信仰は、決して厳しいものではなかったが、それでも各所に山の神が祀られ、年に何度か山の神の祭りが執り行われた。大谷の山の神には、各問屋が祭祀する山の神と、石材組合で祭祀する山の神とがある。各問屋が祭祀する山の神には、問屋の屋敷内に祀ったものと、各山ごと、つまり仕事の現場ごとに祀ったものとがある。問屋の屋敷内に祀った山の神は、その問屋の山の神の総元締めであり、祭りは問屋の主人公を中心に職人等が一堂に会して行うものである。それに対し、各山ごとに祀った山の神の祭りは、その場で働く職人たちが行うものである。
問屋の屋敷内に祀った山の神の祭り日は、1月25日と10月25日である。祭りの方法・内容は両日とも同じで、まず、鳥居に注連縄を張り、幣束を下げ、次いで山の神の祠の前に尾頭付きの魚2匹(大抵は鯛)と果物・赤飯・お神酒・榊を供える。これら準備は番頭が中心となって行う。祭りは簡単で、問屋の主人公から番頭、山先、職人の順で、それぞれが榊を持ち神前に供え拝礼し山での安全等を祈り終わりとなる。終了後は、屋敷内にある事務所を会場に「清め」と称し問屋主催で酒宴を催すのが一般的である。酒の肴はスルメや焼き魚等質素なものであったが、昭和40年頃から仕出し屋等で作った芋煮しめや煮魚等が入った折り詰めを出す所が多くなった。祭りおよび酒宴は午前中で終了となり、午後は仕事休みとなった。
一方、各山ごとの山の神の祭りは、当該現場で働く山先、職人等が執り行ったもので、時には仕事で疲れた職人たちが祭りを口実に体を休めるために行うこともあった。山の神の祠や休憩小屋に祀った山の神の神棚に、山先、職人の順で拝礼し仕事の安全等を祈る。その後は休憩小屋でスルメなどを肴に酒を飲み、終わると仕事は休みとなった。費用は当事者の負担である。
こうした山の神の祭りの他に「山始め」と称し、新しく石切を始める場合にも山の神の祭りがなされた。まず、山の入口に四方に竹を立てしめ縄を張り、中に祭壇を設け、果物・お神酒を供える。その後、神主によるお祓い・祝詞奏上と続き、次いで問屋の主人公、その山で仕事をする山先、職人の準で拝礼をして山での安全を祈る。祭り後は山の神の祭りの通例に則り、休憩小屋でスルメ等を肴に酒を飲み、酒宴後は仕事休みとなった。
写真2 東谷石材山神碑(旧帝国ホテル石材採掘跡)…岩に「大正八年八月二十日 山神東谷 亀田易平記」との刻みがある
石材組合で祭祀する山の神は、正式名称を「大山阿夫利(おおやまあふり)神社」と称し、大谷景観公園近くの岸壁の下部に祀られている。神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社の神を勧請したもので、ご祭神は大山祇(おおやまつみ)神である。祭り日は各問屋で祀る山の神の祭り日と同じく1月25日と10月25日である。1月25日は、午前中各石材業者が参列の上、祠の前に設えた祭壇に重ね餅・お神酒・お頭つき鯛・野菜・果物等を供え、神主によるお祓い、祝詞奏上の後に、参列者全員による玉ぐし奉奠と続き、最後に全員でお神酒をいただいた。一方、10月25日は、代表2名が本社の大山阿夫利神社に参詣し、石山での安全、商売繁盛等を祈りお札を2枚受けてきた。本社へは泊りがけで行ったもので、夜の宿坊でのもてなしが楽しみで、そのため代表2名のみならず任意の参加者もあったという。受けて来たお札のうち1枚は大山阿夫利神社の祠の中に納め、1枚は協同組合の事務室に供えた。ただし、令和になった現在は、祭礼は10月25日のみで、本社へのお札受けは、組合の事務局員が祭礼前に行っている。
ところで、ご本社の大山阿夫利神社は、江戸時代まで石尊大権現と称し、神仏習合の形をとり、大山山頂にある大石に権現様が宿るとされた。それが明治政府の神仏分離令により神仏習合を廃し大山阿夫利神社と改名し、大石には大山祇神が宿るとしたのである。大谷では石尊大権現の名は聞かれないところからすると、大山阿夫利神社を勧請したのは、明治期になってからのことと思われる。また、大谷で大山阿夫利神社を勧請したのは、大山山頂にある大石に神が宿るという信仰が石の里大谷に相応しく、またご祭神の大山祇神が山の神として相応しいとされたからとも思われる。
大谷の石山での山の神祭りは、以上の内容で行われた。山の神祭りは、表向き山での仕事の安全等を祈願するものであったが、現場で仕事に携わる職人たちにとっては、仕事が休めてその上お酒が飲めご馳走がいただけるまたとない慰安の日でもあったのである。