大谷石が持つ地域の資源としての特徴と価値 /髙橋 俊守(宇都宮大学地域デザイン科学部教授)

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大谷石は、長い期間にわたって巧みに利用され続けてきた、特徴的な地域資源である。ここでは、大谷石が地域資源としてどのような特徴を備えているか、大谷石と人々の関係性に着目して考えてみたい。そこでまず地域資源とは、地域にある様々な対象を資源と見なして、たいていの場合は労働としてその対象に働きかけ、ここから様々な生産力を得るものである。地域資源は、一般的に市場で流通している資源と異なり、非移転性、有機的連鎖性、非市場的性格の三点を備えていることが特徴であるとされている。非移転性とは、例えば、土地や気象、景観など、人の手で空間的に移転させることができず、その地域だけに存在して利用できる特徴を示している。有機的連鎖性とは、地域の資源が地域固有の生態系に位置づけられているため、地域資源相互の間に有機的な連鎖性が認められることを意味している。そして非市場的性格とは、地域資源が持つこれらの特徴によって、どこでも、いつでも調達することは難しく、一般的な資源と比べて市場メカニズムにはなじみにくい特徴があることである。それでは、大谷石には地域資源としてどのような特徴があり、また人々はどのようにそれを理解して利用してきたのだろうか。大谷石の持つ非移転性と有機的連鎖性の特徴について考察してみることにする。

大谷石の地域資源としての非移転性について

大谷石という名称は、大谷という産地名と、資源の対象である石を組み合わせた言葉である。大谷石の産地の分布を可視化するため、図1に昭和期における採石場の分布概要を示した。ここから、大谷石のすべての採石場は、上流部の姿川流域に分布しており、特に、姿川とその支川である鎧川に挟まれた、東西約2km、南北約3kmに産地が集中していることが分かる。

次に、農作業や水路管理において社会的な関係が大きく、農村社会の単位と見なすことができる農業集落界と重ねてみると、採石場は旧城山村に約90カ所、旧国本村に約40箇所見られ、一部は旧富屋村にも認められる。これらの旧村をさらに分割して、農業集落の最小単位(昭和期以前の村の単位と重なることが多い)との対応関係から見ると、採石場の箇所数は岩原が20カ所以上で最も多く、次いで立岩、瓦作、田下、上駒生、坂本、新里、戸室、荒針と続く。それぞれの採石量に関する分布データは得られていないが、採石場の分布状況から、大谷石の産地の中心がどこにあったか、概ね理解することができる。このように、大谷石の産地は限られており、他にどこでも採掘できるものではないため、非移転性の特徴を持った地域であると考えて良いだろう。

なお、大谷石の産地は地域では限定されるものの、大谷石の原料となる緑色凝灰岩は、全国的には東北地方から日本海側、関東地方にも分布しており、大谷石以外にも十和田石、伊豆石等の凝灰岩の採石地があることが知られている。その中でもとりわけ大谷石が有名になったのは、大谷石の資源としての利用価値が高く評価され、明治期以降、我が国における一大採石地に発展し、大きな生産力を得て人々の生活を豊かにすることに成功したからである。

大谷石の地域資源としての有機的連鎖性について

地域資源の有機的連鎖性とは、地域固有の生態系において、地域資源が相互に連鎖して認められるという特徴である。例えば、特異な大谷石を伴う自然景観と、優れた石材の採石地にはどのような有機的連鎖性があるだろうか。今日、大谷に人々の関心が寄せられるのは、大谷寺の磨崖仏や大谷石による奇異な自然景観に加えて、近代に資源として高く評価された大谷石の採石地であることも要因となっていることだろう。もしも採石が際限なく行われ、江戸時代の人々が陸の松島と呼び親しんだ景観あるいは歴史的な遺産である磨崖仏が損なわれていたら、大谷の魅力は採石量の低下とともに失われてしまっていたかも知れない。それぞれの持つ地域資源としての特徴を保全するため、大谷は我が国有数の採石地として発展するとともに、日本の文化財保護制度の対象地としても保護されてきた。こうした取り組みは、大谷石が持つ地域資源としての有機的連鎖性を確保するための配慮にもなっている。それでは、こうした制度がまだなかった時代の人々は、様々な地域資源として利用できる大谷石の連鎖性をどのように理解していたのだろうか。ここでは、大谷石を神格化して神社に祀ったり、大谷石を墓石として利用し、神聖な空間や祈りの対象としていた事例を紹介したい。というのも、こうした先人の行為には、地域特有の生態系の中で、大谷石と関係した様々な地域資源や人々の暮らしが、相互に結びついていることへの、気づきと深い理解を伴うものであるように思えるからである。

大谷石の産地周辺には、大谷石の巨石あるいは洞穴、奇岩景観が認められる特徴的な場所に、神社や寺を設置して神聖な空間として大切にしている場所が随所に見られる。例えば、大谷地区で最も高い戸室山山頂(標高228.5m)には、大谷石の巨石が露出した特異な自然景観が見られ、ここには大谷地区の古くからの鎮守として戸室山神社が祀られている。また、昭和期の採石場数が最も多く、江戸時代以前には宇都宮城築城のため採石が行われた記録も残る岩原地区においても、村の鎮守は大谷石の巨石を御神体とする岩原神社である。明治期の近代化とともに大谷石の採石が盛んに行われるようになると、採掘業者は山の神を祀る大山阿夫利神社を創建し、作業の安全を祈願した。この神社の境内は、大谷石の自然石に続いており、本殿は大谷石造りの石祠で、玉垣、鳥居、狛犬、石段等にも大谷石がふんだんに用いられている。このように、大谷石を伴う地域の特徴的な自然は、神仏の宿る神聖な空間として大切にされてきたのである。

本稿でもう一つ紹介しておきたいのは、大谷石の墓石や供養塔としての利用である。故人への追憶や供養の念を向ける対象にふさわしい素材として、先人は大谷石を選び利用してきた。歴史学者の橋本澄朗先生によると、大谷石の歴史上初めての建造物は、古墳の石室に見ることができるという。中世あるいは近世には、大谷石による五輪塔、供養塔、石塔婆、石仏等は今でも盛んに造られ、随所に残されている。ここでは、大谷石採石場を中心として宇都宮市に特に多く、日光市、鹿沼市、塩谷町、壬生町にも見られる屋根付石廟墓(写真1)を紹介しておきたい。宇都宮市内における廟墓の分布と農業集落の旧村との対応関係を見ると、旧城山村、旧国本村、旧富屋村の順で多く、これらで全体の6割を超えている(図2)。この順番は、先に挙げた昭和期の大谷石採石場箇所数の順とも一致しており、採石場の周囲で大谷石を加工した廟墓が多く使われたものと考えられる。この廟墓は、大谷石をくり抜いて石屋根を付けた構造を示し、廟墓の中には石塔婆や五輪塔が対で納められていることが多いようである。庄屋の墓地には、大型の屋根付石廟墓が保存されていることがあり、彫られた年代が読み取れるものがある。逆修の文字が刻まれていることもあるため、生前に夫婦で建立したものかも知れないが、学問的な由来について詳細は歴史家に委ねたい。

以上、大谷石の持つ地域資源としての特徴について、非移転性及び有機的連鎖性の視点から考察してきた。大谷石は、古代から現代に至るまで、その時々の社会的必要性を背景に、地域資源としての価値が見出され、巧みに利用され続けることで、生活や文化に溶け込みながら地域の個性を培ってきた。大谷石は、利用価値のある身近な地域資源であるとともに、祈りを捧げる神聖な対象として神仏を祀ったり、祖先を供養したりするための墓石としても利用されてきた。現代人の私たちが、大谷石の地域資源としての利活用を考える際には、こうした歴史的な背景も踏まえた上で、大谷石の地域資源としての非移転性や有機的連鎖性を失わず、むしろこれらの特徴を補ったり再構築したりするような方策を見出さなければならない。その積み重ねが、地域の個性を育み、地域に豊かさを蓄積するための基本となると思われる。


図1 大谷地区周辺における昭和期の採石場(凝灰岩に限る)の分布概要
図中の破線は農業集落界及びその名称を示す。産地の中心からはずれた採石場の石は、北部の徳次郎石、南部の戸室石、西部の田下石のように、必ずしも大谷石と呼称しないこともあり、石の性質もそれぞれ異なっているものの、凝灰岩の採石場であることに変わりはないことから一体的に表した。なお、現在も稼働中の採石場は10カ所前後である。


写真1 大谷石の採石場周辺に見られる大谷石で造られた屋根付石廟墓
成立年代について多くは不明であるが、一部の墓所からは年代が読み取れる保存状態の良いものがあり、筆者が調査した範囲では、宝永2年(1705年)と記載されているものが最も古く、その多くは江戸時代に建立されたものと考えられるが、最も新しい廟墓では明治43年(1910年)の記載が認められたものもあった。(2016年7月31日撮影)


図3 大谷地区周辺における屋根付石廟墓の分布概要
採石場の周辺に位置する集落の墓地に特に多く分布しており、その広がりから江戸時代の大谷石の地域での利用範囲を見ることができる。庄屋の墓地には、一際大きく年代の彫り込みが読み取れるほど程度の良い廟墓が残されていることがある。

参考文献
1)永田恵十郎;地域資源の国民的利用, 食糧・農業問題全集18,農山漁村文化協会,1988年
2)農林水産省統計部;2015年農林業センサス報告書,2018年
3)徳次郎石研究会;徳次郎石研究会活動成果報告書 2019年度,2020年
4)宇都宮市;石のまち大谷の文化的景観保存計画報告書,2008年


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