大谷石と江戸時代の石切の暮らし /坂本達彦(國學院大學栃木短期大學教授)

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大谷石は、輸送に鉄道が使用できるようになる明治以降に販路が大幅に拡大し、関東大震災において優秀な耐火性が認められ、広範に使用されるようになります (1)。しかし、採掘自体は奈良時代には行われていたといわれています(2) 。近世には採掘地と近い宇都宮に城下町が形成され、築城にも大谷石が利用されました。

奥平忠昌(おくだいらただまさ)以来、宇都宮藩は領内の荒針・新里・岩原・徳次郎村(現・宇都宮市)に対して「御用石(ごよういし)」を命じています(荒針村は17世紀後半に他領となり、除外される)。「御用石」は、宇都宮城二の丸太鼓門外の三日月堀の普請や、二の丸下敷石など城内各所に使用されました (3)。

ここでは、近世の岩原村を事例に、石切と呼ばれた職人たちの活動について紹介していきます。石切は村ごとに仲間が結成され、その世話役である肝煎(きもいり)が統括しました。賃金の支払いも肝煎が差配しました (4)。

当村の生産力を示す村高は、慶安年間は188石余り、元禄年間は234石余り、幕末期も235石余りで (5)、安永3年(1774)の家数は37軒、人口は132人(男70人・女61人・僧侶1人)でした(6) 。石高だけで見ると、あまり生産力の高い村とは言えませんでした。しかし、当村には大谷石という石高では示せない特産物が存在しました。近隣の上荒針村の事例を参考にすれば(7) 、耕地をあまり所持していない者であっても、石切に従事して収入を得ていたと思われます。

先述の通り、御用を請け負う以上、そのための技術を有していました。しかし、岩原村にいつ技術が伝播したのかは不明です。奥平氏以来、御用を務めている事実も考慮すれば、技術の流入は近世以前と推測されます。小規模な建築作業の場合、分業化は進んでおらず、石切は採掘から加工、施工まで行っていたようです。例えば、文久3年(1863)に庄屋新蔵宅の蔵の屋根石を請け負った「石工」栄吉・庄左衛門は、「伐出シ」と「葺渡(ふきわたし)」を行うと契約しています (8)。

村内に石切は何人いたのでしょうか。貞享2年(1685)に、石切8名が石切商売を命じられた記録を確認できます(9) 。また、慶応元年(1865)には、石切は9人という公的な記録を確認できますので(10) 、その人数は時代によって異なりました。

次に宝暦4年(1754)に行われた岩原村の鎮守修復から、石切の実態を見ていきます (11)。この時、屋根石を担当した岩原村の石切4人の仕事が不十分だったようで、石切肝煎七左衛門が注意しました。4人は仕事を十分に果たしたと反論し、両者の間で争いが起こっています。その訴状から、次のことがわかります。

修復に際し、肝煎は、「石切仲間拾七人(17人)」に鎮守修復の石材を準備するように命じました。時期は異なりますが、先ほど紹介した慶応年間の公的な記録と比べ、石切の人数が大きく異なります。後ほど述べるように、当主のみではなく、その家族も仲間の人数に含まれていたと思われます。

石切たちは担当箇所を割り当てられたようで、孫右衛門、忠右衛門、六右衛門、惣兵衛の4人は屋根を担当することになりました。4人全員で屋根石を準備するのではなく、それぞれ棟石(孫右衛門)、破風石(忠右衛門)、「五ほこ目」(六右衛門)、裏軒石(惣兵衛)と更に細かく担当が割り当てられています。ここでも、彼らは石を切り出すだけではなく、加工まで行ったのです。

破風石を請け負った忠右衛門は、記録の中に「十右衛門忰(息子)」と記されており、家督を継ぐ前の者でした。彼はまだ未熟な石切だったのか、破風石を十分に加工することができず、孫右衛門に代わりの作業を依頼しています。このように他の石切を頼る場合もあったようです。また、この事例から家督を継ぐ前でも、石切仲間の1人として、鎮守の修復材を担当しているのです。

近世社会は家父長制であり、当主が家の代表者でした。そのため、この争いに関して肝煎らを訴えた文書の差出人は、孫右衛門・十右衛門・六右衛門・惣兵衛であり、忠右衛門は当事者であるにも関わらず、署名していません。先程出てきた石切仲間というのは、公的な人数と異なり、当主か否かを問わず、村内の石切1人1人が加入していたと思われます。
ここで紹介したのは宝暦期と文久期の2例のみですが、岩原村の石切は、宇都宮城の御用を務めるだけではなく、村内の建物の建築にも関わっていました。

また、寛政11年(1799)3月22日に宇都宮を通過した幕臣遠山景晋(とおやまかげみち)は、その紀行文に次のように記しています(12) 。

城下町の家々の屋根は大谷石の石葺であり、宿泊した宿屋の屋根・壁・石垣・井輪(井桁か)までこの石で作られていると非常に驚き、大谷がその石の産地であることまで記しています。

岩原村の石切も宇都宮町に大谷石を出荷していましたから、遠山が目にした大谷石建築にも、彼らが関わったものがあったかもしれません(13) 。


写真1 岩原神社本殿覆屋(おおいや)の大谷石瓦による石屋根 (2020年11月20日撮影)


写真2 岩原神社の御神体「ダルマ岩」 (2021年2月19日撮影)


写真3 岩原町のまちなみ (2021年2月14日撮影)
画面左下から上に向かって、豆田川が北から南へと流下している。右岸の水田地帯には、縄文時代からの集落跡や城館に隣接した岩原神社が位置する。左岸の台地上には大谷石採掘場が多く分布し、一部では現在も採掘が続いている。

(1)大嶽浩良「近代都市の発展」(阿部昭編『街道の日本史15 日光道中と那須野ヶ原』吉川弘文館、二〇〇二年)。
(2)「荒針村」(『日本歴史地名大系第9巻 栃木県の地名』平凡社)。
(3)『宇都宮市史』近世通史編(以下、『近世通史編』と略す)、竹末広美「街道沿いの城下町と宿駅」(前掲『街道の日本史15 日光道中と那須野ヶ原』)。
(4)前掲『近世通史編』。
(5)『角川日本地名大辞典9 栃木県』、前掲『栃木県の地名』。
(6)安永三年「岩原村差出し帳」(『宇都宮市史』近世史料編Ⅰ)。
(7)前掲『近世通史編』。
(8)栃木県立文書館寄託高橋悦郎家文書749(以下、同家の史料は「高橋家749」等と記す)。
(9)「岩原村」(前掲『栃木県の地名』)。
(10)高橋家26。
(11)高橋家550。
(12)拙稿「江戸時代の旅人がみた下野国の風景」(『下野新聞新書8 栃木文化への誘い』下野新聞社、2013年)。
(13)本稿は令和3年度に発表予定の拙稿の一部を改変したものです。


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