大谷寺洞穴遺跡 -大谷の地に足跡を残した人々- / 橋本 澄朗(宇都宮市文化財保護審議委員会委員長)

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大谷寺洞穴遺跡(おおやじどうけついせき)とは

大谷の地に何時から人が住み始めたか?理屈っぽい話で恐縮だが、ここで住むとは一定期間の居住と規定する。すると、千手観音像等の磨崖仏(まがいぶつ)で有名な大谷寺境内の大谷寺洞穴遺跡が該当する。
凝灰岩(大谷石)が浸食されて造られた洞穴(岩陰)は南西に開口し、間口30m、奥行13m、高さ12m、半球形状の空間を形成する。眼前には姿川が流下し、洞穴は絶好の居住空間となる。本遺跡は洞穴の岩壁に彫られた磨崖仏群(特別史跡・重要文化財)の保存工事に伴い昭和40(1965)年に発掘調査が実施された。調査成果から洞穴での生活の一端を垣間見ることにする。

大谷寺洞穴遺跡遠景

発掘調査の成果

洞穴内堆積土の除去工事と併行しての調査であったが、縄文時代草創期から晩期、弥生時代中期、歴史時代(磨崖仏造像以降の古代・中世・近世)と断続的ではあるが、多様な遺物が発見された。とくに、洞穴堆積土の下層(第3~5層)から発見された縄文時代草創期の土器群は、全国の研究者から大きな関心が寄せられた。この間の事情について説明しよう。

層位学的方法

考古学の調査方法に地質学の研究を応用した層位学的方法がある。地層の攪乱がなければ、下層から出土した遺物は上層の遺物より古いことになる。大谷寺洞穴遺跡ではロームと凝灰岩からなる盛土層下に6枚の土層と2枚の灰層が確認されている。遺物の出土層位を整理する。第1層は歴史時代~縄文時代早期後半、第1灰層は縄文時代早期後半、第2層・第2灰層は縄文時代早期前半、第3・4層は縄文時代早期(井草式)~草創期(大谷寺Ⅲ・Ⅱ式)、第5層は縄文時代草創期(大谷寺Ⅰ式)、第6層は無遺物となる。層位学的所見から大谷寺洞穴遺跡に最初に人が足跡を印したのは、大谷寺Ⅰ式期ということになる。

大谷寺Ⅰ~Ⅲ式土器

昭和40年代の考古学の重要な関心の一つに、最古の土器の追求があった。当時、最古の土器とされた縄文時代早期初頭の撚糸文(よりいともん)系土器より古い土器群が、本遺跡で層位的に確認されたのである。すなわち、撚糸文系土器に先行して、隆起線文(りゅうきせnもん)土器群(大谷寺Ⅰ式) ⇒稀少縄文系土器(大谷寺Ⅱ式) ⇒多縄文系土器(大谷寺Ⅲ式)と草創期の土器が変遷することが判明した。本遺跡の調査成果は縄文土器の展開を考える時、半世紀以上経過した今でも重要な意義を持つのである。やや専門的な説明になってしまった。視点を変え洞穴での生活に想いを馳せることにする。

大谷寺洞穴のくらし

旧石器時代人は獲物を追って移動する狩猟民である。寒さと飢えに耐え、移動する厳しい生活と想像される。最終氷河期(ヴュルム氷期)が終わり徐々に温暖化する約12,000年前、人は土器でモノを煮る技術を獲得する。煮る技術の獲得は様々なモノを食べることができ、生活を革命的に豊かにした。その頃、大谷寺洞穴にも人が居住したと考えられる。その生活の痕跡を示すものが土器・石器・骨角器とシカ・イノシシ・イヌ・タヌキ・ムササビの獣骨や淡水産のイシガイ・カワニナ、海水産のシオフキ・ハマグリ・ハイガイの貝殻など食料の残り滓(かす)である。洞穴は雨露をしのげ、焚火で暖をとり、姿川から水を汲むこともできる。それまでよりは格段に良いくらしと推測される。

側臥屈葬(そくがくっそう)の人骨

洞穴からは複数体の人骨も発見されている。なかでも注目されたのが、写真で示した洞穴の奥、第1灰層から発見された縄文時代早期の側臥屈葬の人骨である。すなわち、手足を折り曲げ、頭を横に向けて埋葬された人骨である。調査によって性別は不明だが身長154㎝の成人、手足の発達が不均衡で華奢な人骨と分析されている。また、発見された人骨の中には幼児や乳児の出土も報告されている。人骨から当時の厳しい生活の一端が読み取れる。洞穴は住居ばかりか墓地としても利用された。そこには生と死とが混然一体とした縄文人の空間が存在したのである。

人骨発掘状況(栃木県立博物館提供)

居住から定住へ

暗く湿気のある洞穴は人が長期間住むには不向きである。これは居住だが、定住ではない。ところが、近年大谷寺洞穴遺跡の東約12㎞、釜川源流の湧水点に面した宇都宮市野沢遺跡から縄文時代草創期前半の竪穴住居跡3軒が調査されて大きな話題となった。その中の1軒の住居跡(SI-04)を写真に示した。約4mの円形プラン、一本主柱の伏屋式竪穴住居跡である。住居の上屋は広げた傘のようになる。主柱は柱穴を掘り固定するのではなく、柱の先端を尖らせて打ち込んでいる。この3軒の素朴な住居こそ移動から定住へ、人がムラを造る確かな第一歩である。

野沢遺跡SI-04(栃木県教育委員会提供)

森の民の営み

野沢遺跡で3軒の住居が造られた約6000年後、大谷寺洞穴遺跡から南へ約6㎞に宇都宮市根古谷台(ねごやだい)遺跡(国指定史跡)が出現する。本遺跡は縄文時代前期中頃、多数の墓壙を取り囲みように様々な大型建物群が造られた拠点集落である。本遺跡は縄文人が理想とするムラ=縄文モデルムラの一つと考えられる。宇都宮市北部地域には、大谷寺洞穴遺跡、野沢遺跡、根古谷台遺跡と列島規模でみても縄文時代を代表するような遺跡が所在する。これらの遺跡は、森の民として豊かな自然に適応し、懸命に生き、確かな生の営みを残した貴重な記念物とも言える。

根古谷台遺跡の復元された建物跡


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