明治前期における大谷石の東京市場開拓(3)/髙山慶子(宇都宮大学共同教育学部准教授)

  • カテゴリ_歴史

明治12年(1879)8月20日、同27日、9月6日、同11日と、仲田信亮から馬込惟長への手紙は続く*8。それらの中で仲田は、惟長の照会を受けて、大谷石以外の栃木県産石材である板橋石、岩船石、磯山石についても情報を寄せている。特に板橋石は、「全ク近年之産出」とあるように、この頃に新たに産出されるようになった石で、「大谷石ヨリハ遙カニ相優り居り候」と、大谷石よりも高品質であると述べられている(8月20日付け書簡)。

8月27日付けの書簡には、「大谷石ハ先ツ豆州ノ中等、板橋石ハ其質豆州之上ニ位スベキナレドモ、青緑薄ク候ニ付、先ツ壱等劣り、右ニて色濃ニ候ハヽ建築第一等、豆・相ノ上ニ居ルヘキ鑑定」とあり、大谷石は伊豆石の中等、板橋石は青緑色の濃いものが伊豆石より上位で建築用の石材としては第一等、色の薄いものは一等劣る、と鑑定されている。仲田は、大谷石と一緒に板橋石の見本も送ると伝え、岩船石と磯山石についても見本を取り寄せ次第、惟長のもとに送ると記している*9。

こうして大谷石をはじめとする栃木県産石材の東京販売に向けて、調査・準備が進められた。9月6日付けの書簡には、「其筋御検査済、御買上直〔値〕段も御計算ニ相当り、弥山元御着手と相成候へは、右周旋方極々慥成其道適当之人物ヲ得候」とあり、石材の検査が済むと、買い上げ値段の算定、そしていよいよ石の切り出しへと進むが、その世話人には極めて信用できる人物がいるという。仲田は「本月下旬尊来之砌、山元御巡覧之儀ニ候ハヽ、同人ヲ以御案内為致候見込」と述べ、惟長が栃木に来県し、石山を巡覧する際には、その人物に案内をさせる予定だと伝えている。

しかし、次の9月11日付けの書簡には、以下の通り記されている(写真5)。

(前略)石質弥宜敷事ニ御検査相済、御遣ヒ道御目途相立候上は、直〔値〕段之一条と相成可申、附而は仰之如ク山元石直〔値〕段は価ノナキモ同様之物、只々運送費之一段ニ有之、何れニも運送費は必ス良策可有之と愚考仕候、右利益之有無は全ク此運送之一事ニ御座候間、夫是以尊来之砌、篤と御相談可仕候

石の性質のよさが検査で確かめられ、用途についても目処が立てば、あとは値段を決めるばかりとなるが、それについては惟長も心配する通り、石の値段はただ同前であるが、問題は運送費であるという。仲田は、運送費をおさえる良策は必ずある、大谷石等の東京販売で利益が出るかどうかはすべてこの運送費にかかっているとして、惟長が来県した際には念を入れて相談したいと述べている。

馬込家文書にのこる仲田の書簡はこれが最後で、大谷石の東京販売に関する史料は他には確認されていない。この6年後に設立された弘石舎、その後の下野石会社の展開を考え合わせると、惟長と仲田も運送費の問題を解決することはできなかったとみられる。大谷石の場合、当時は石井河岸までは陸路(人力か馬の使用か)、そこからは鬼怒川舟運を利用したが、こうした既存の輸送手段を前提とする限り、栃木県官吏であったとみられる仲田をもってしても、採算のとれる方策を見出すことはできなかったのである。

大谷石の東京販売の実現は、鉄道と人車軌道という明治の新しい技術の登場によってもたらされたことが改めて理解される。それでもそこに至るまでには、明治12年(1879)の馬込惟長と仲田信亮の挑戦、同18年の弘石舎、およびその後の下野石会社の設立、という試行錯誤があったのである。

*8 髙山慶子「栃木県官吏仲田信亮の旧江戸町名主馬込惟長宛書簡―大谷石などの栃木県産石材をめぐって―」(『宇都宮大学教育学部研究紀要』第66号第1部、2016年)。
*9 なお、板橋石は上都賀郡板橋宿(現在の日光市板橋)、岩船石は下都賀郡静村(現在の栃木市岩舟町静)、磯山石は下都賀郡真弓村(現在の栃木市大平町真弓)で産出される石である。板橋石について、仲田は「一昨年〔明治10年〕栃木下町江新築相成候警察署は則板橋石之趣、昨日始メテ承知」、「板橋石之見体甚伊豆石ニ類似いたし居候」と述べている(8月20日付け書簡)。岩船石と磯山石については、「御端書ニ被仰越候堅石」とある通り、惟長の照会に答える形でこれらの堅石(かたいし、安山岩)を取り上げ、「土台及ヒ石垣等ニ適用」と説明している(8月27日付け書簡)。


写真5 明治12年9月11日付けの書簡(冒頭部分)
本文の8行目(上から4文字目)に「石質弥宜敷事ニ」ではじまる文章を確認できる。「弥」は「いよいよ」。
(「馬込惟長宛書簡綴(大谷石購入などにつき)」東京都江戸東京博物館所蔵、大伝馬町名主馬込家文書、資料番号09000762)


》 PDF版のダウンロードはこちら