古墳時代とは
古墳時代とは変な呼び方である。とりあえず、古墳時代を「古墳を造ることに政治的・社会的価値が認められた時代」と考える。列島規模でみると、古墳時代は3世紀中頃~7世紀中頃になる。注意したいのが、古墳時代は奈良時代(710~784)のように時代変化が全国一斉ではなく、地域により異なること。ある地域の首長(しゅちょう)(支配者)がヤマト王権との連合の証しに古墳を築造した時、その地域は古墳時代になる。すると、地域の範囲が問題になる。古墳時代は生業の中心が稲作であり、河川流域で考えるのが合理的である。この視点で姿川上流の大谷地区の古墳時代をみていくことから始めたい。
古墳時代の大谷
宇都宮市南部(田川流域)では古墳時代前期(4世紀)前半に首長墓が造られ、その勢力は姿川流域にも及ぶ。そして古墳時代中期(5世紀)以後、姿川中・下流域には大きな首長墓が造られ、下野の中心領域になる。ところが、大谷地区を含む姿川上流域では、中期まで古墳は築造されない。しかし、後期(6世紀)にはヤマト王権から鉄製農具などの先端技術を手に入れた地方首長による水田開発が活発となり、各地に古墳群が造られる。図1は宇都宮市域を中心とした古墳群の分布図である。古墳群の大部分が古墳時代後期後半であり、そこから中・小河川上流まで開発が進展したことが読み取れる。それは宇都宮市域ばかりか東国に共通する歴史的動向であった。そして姿川上流の大谷周辺にも後期古墳群が造られるようになる。
後期古墳群の特徴
後期古墳群の特徴の一つに群集墳(ぐんしゅうふん)と呼ばれ、比較的小型な古墳が群集して造られることが多いことである。群集墳は複数の前方後円墳と小型円墳群、1基の前方後円墳と小・中型円墳群、大型円墳と小・中型円墳群、小型円墳群など多様な在り方を示す。もう一つの特徴に、図2で示した横穴式石室(死者を納める玄室に繋がる羨道をつけた石積みの墓室)が埋葬施設に採用されたことである。一回の埋葬を基本とする竪穴系の埋葬施設から追葬(ついそう)が可能な横穴式石室の出現は大きな意味を持つ。すなわち、群集墳からは古墳築造階層の拡大を、横穴式石室からは家族墓的要素が読み取れ、後期古墳群は古墳文化のターニングポイントになる。
大谷石の石室
ここからが問題の核心である。姿川上流には図3の通り大谷石使用の横穴式石室を埋葬施設にした古墳が確認できる。さらに、大谷石使用の横穴式石室は2タイプに分類できる。Aタイプは大谷石の割(わり)石(いし)を使用した横穴式石室で、田野町割田古墳群(図3―1)、大谷町上の原古墳群、上欠町稲荷古墳群(19)、同聖山古墳群(20)、下砥上町下砥上古墳群(11)等が該当する。一方、Bタイプは大谷石の切石を使用した横穴式石室で、下砥上町下砥上愛宕塚古墳(10)、針ケ谷町針ケ谷新田古墳群(12)、同針ケ谷新田遺跡(13)、雀宮町十里木古墳(14)等が該当する。Aタイプは露出した大谷石を割石として使用したもので、大谷石産出地周辺に見られるのは当然である。この傾向は大谷石と同じ凝灰岩の長岡石を使用した田川上流域でも顕著な形でみられる(図3―14~18参照)。問題は大谷石の切石を使用したBタイプである。Bタイプには大谷石の石切り場と石工の存在が想定される。
針ケ谷新田古墳群が語るもの
Bタイプの横穴式石室に関して興味深い事実が判明したのが、針ヶ谷新田古墳群の発掘調査である。宇都宮市立新田小学校建設に伴い針ケ谷新田古墳群の発掘調査が実施された。同古墳群3号墳は写真で示したようにBタイプの石室で、奥壁と側壁の一部に大谷石の切石が使用されたことが判明。さらに、川原石を敷き詰めた床面を除去すると、大谷石の削り滓の堆積層が発見された。このことから大谷石を切り出し、奥壁・側壁・羨門等の部材に粗く加工したままの大谷石を運搬し、古墳築造の現場で石工が細部を調整加工して横穴式石室を構築する。そして、大谷石の削り滓を床面下に意図的に敷き詰めたものと推測される。
最古の大谷石使用の構築物
次に、Bタイプの分布であるが、図3でも明瞭なように姿川流域に相当数かつAタイプより下流に存在することにも注目しておきたい。これらの事実を総合的に評価すると、6世紀後半、地方首長が大谷石の切石を横穴式石室に使用することを目的に大谷の地を支配下に置いたと考えられる。そして、首長の主導下に、石工の編成⇒石切場の設定⇒石の切り出し⇒粗い加工⇒運搬⇒細部加工⇒石室構築と言う一連の作業工程と姿川を介在して横穴式石室用の大谷石供給のネットワークが成立したと考えられる。それは、死後魂が安住すると観念された黄泉の世界=横穴式石室を整美に演出する大谷石切石を権威や権力を表す威信材として首長が独占したことを意味する。視点を変えれば、Bタイプの横穴式石室は、現存する最古の大谷石を使用した構築物と言うこともできる。