仏教文化の波及と大谷 -里山の異界を求めて- / 橋本 澄朗(宇都宮市文化財保護審議委員会委員長)

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磨崖仏造像事情

7世紀後半には下野に仏教が波及したことは、下野薬師寺、浄法寺廃寺、大内廃寺等の存在からも考えられる。その後、下野国分二寺の創建、東大寺・筑紫観世音寺と並び日本三戒壇の一つ下野薬師寺の成立と、下野は古代東国の仏教の中心となっていった。しかし、私には「何故、大谷の地に日本でも稀有な大谷磨崖仏が造像されたか」と言う年来の疑問があった。それは磨崖仏造像事情を下野仏教史の展開の中で再構築する作業でもある。ここでは山林修行と言う視点からの説明を試みたい。


図1 大谷観音(千手観音立像・大谷磨崖仏)

平地寺院と山林寺院

古代の寺院は東大寺や法隆寺など平地に造られ、七堂伽藍の堂々とした姿がイメージされる。仏法によって国家と民衆の安寧を祈願する法会を実施する古代寺院の性格を端的に示すものである。時の権力と結びつき発展した仏教は、権力者の居住する周辺に平地寺院として造られるケースが多い。例えば、中央では藤原京や平城京、地方では国府や郡家の周辺である。しかし、近年の研究成果を参照すると、平地寺院と共に僧尼が修行する山林寺院の存在が指摘されている。当時の僧尼は、国家安寧の祈りと共に寺での教学研究と山林や行場での修行が求められた。古代寺院の立地として、平地寺院の対極に隠遁志向、修行の場としての山林寺院の存在に注目しておきたい。

空海の山林修行

山林修行と言うと、若き空海の修行が思いおこされる。空海は周囲の期待で役人を養成する大学に入学するが、一人の沙門から虚空蔵菩薩を本尊とする密教の修法である虚空蔵求聞持法を授けられ、本格的な仏道修行に入ることになる。その修行とは真言を百万回唱え山水を遍歴する、まさに山林修行である。空海は土佐の室戸岬、吉野の金峯山、伊予の石鎚山等で厳しい修行をし、「谷響きを惜しまず、明星来影す」と記された神秘体験をし、理解力や記憶力を高めるという虚空蔵求聞持法を体得したと言われている。当然のことながら、山林修行したのは空海ばかりではない。天台宗の宗祖最澄や男体山を開山した勝道等、この時代多くの僧が山林修行をしたのである。

下野国分寺と大慈寺

国分寺創建以後、地方の仏教政策の中心は国毎に造られた国分寺になる。下野国分寺は下野市国分に創建されたのは周知の通り。国分寺では国家や民衆の安寧を祈る様々な法会が実施されたのである。その下野国分寺の僧侶が山林修行の拠点とした山林寺院を栃木市小野寺の大慈寺とする見解が示された。なるほど、足尾山地に連なる山並みの末端に造られた大慈寺は、山林寺院に相応しい立地である。大慈寺を国分寺の山林寺院とした根拠が大慈寺から出土した下野国分式瓦である。少し専門的だが説明しよう。下野では8世紀中頃の国分寺創建を契機に、国府が瓦生産に直接従事(国衙工房)するようになる。国衙工房で生産された瓦を下野国分寺式と呼び、官寺(国分寺や下野薬師寺)や役所(国府や郡家)に供給された。言い換えれば、下野国分寺式瓦が出土する遺跡は官的性格を持つことになる。そこで国分寺式瓦の出土を根拠に、大慈寺を下野国分寺の山林寺院と想定したのである。ここから本題になる。

下野薬師寺の山林修行の地

日本三戒壇の一つ下野薬師寺の僧侶にも山林修行の場が想定できないだろうか。まず、下毛野氏の氏寺として創建された下野薬師寺の瓦を供給したのは宇都宮市中戸祭の水道山瓦窯跡である。下毛野氏の支配領域が宇都宮北部に及んでいた事情もあり、下野薬師寺と宇都宮北部丘陵は南流する田川を介在して創建以来密接な関連を有していたと推測される。こう考えると、凝灰岩の岩肌を露出し、里山の異界とも言うべき大谷の景観。そして、大谷に隣接する神奈備型の優しい山容の多気山。さらに、北の奥山には標高583mと低山ながら岩場が露出した行場に相応しい山容の古賀志山が所在する。宇都宮北部丘陵は山林修行の地に相応しいと考えるが、如何であろうか。


図2 水道山瓦窯(上:3号窯,下1・2号窯)宇都宮市中戸祭町

大谷磨崖仏と春日山原始林の石窟仏群

下野薬師寺の山林修行の場が宇都宮北部丘陵と想定したが、大慈寺のような山林寺院の存在は確認できない。そこで、山林修行の拠点となったのが大谷磨崖仏が造像された洞窟と推測する。その根拠の一つを示す。それが奈良県春日山原始林に造像された石仏石窟群である。春日山原始林は春日神社の神域で狩猟や伐採が禁止され原生林の広がる森として世界遺産にも登録されている。その春日原始林周辺は平安時代から東大寺や興福寺など、南都寺院の僧侶の山林修行の場となっていた。その拠点となったのが春日山原始林中に造像された春日山石窟仏や地獄谷石窟仏などの石窟群とされている。山林修行の拠点として造像されたと推測した大谷磨崖仏。その後の展開は次回に譲りたい。


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