大谷磨崖仏 ―岩壁に彫られた十体の仏像― / 橋本 澄朗(宇都宮市文化財保護審議委員会委員長)

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大谷磨崖仏の全容

下野薬師寺の僧侶が山林修行の拠点とした洞窟に造像されたと推測した大谷磨崖仏。その展開を検討する前に、磨崖仏の全容を紹介する。凝灰岩(大谷石)が浸食されて造られた間口30m、奥行13m、高さ12m、半球形状の空間を形成して南西に開口する洞穴には、図1の通り東から千手観音立像、釈迦三尊像、薬師三尊像、阿弥陀三尊像と四基の龕(がん)(石仏を彫るために整形された区画)に十体の磨崖仏が造像されている。第一龕の千手観音立像から説明していきたい。

第一龕 千手観音立像

第一龕は洞穴の東側に位置し、西面する長方形の龕(縦7.43m、横5.85m)に、像高3.89mの千手観音立像が高肉彫されている。蓮華座(れんげざ)上に直立する千手観音像の背面には四二臂(ひ)が囲み、上半身には宝珠形光背(ほうじゅけいこうはい)が浮彫されている。大きな宝髻(ほうけい)を結った頭部に山形の冠飾をつけ、身に条帛(じょうはく)と天衣をかけ、裳(も)をまとい、蓮弁繋文(れんべんつなぎもん)の腰帯を締めている。合掌した千手観音立像の姿態に優美さは残るが、細身の印象を受けるのは細部を表現した塑土や漆が剥落した結果である。


図1 大谷寺境内平面見取り図

造像に当たっては高度な技術が駆使されている。まず、壁面に概略の像容を荒彫りし、その上に塑土を着せ、漆で姿態を整えて金箔等で彩色している。このような造像法を石心塑像(せきしんそぞう)と言い、日本では大谷磨崖仏のみに認められる。さらに、台座は損傷が激しいが、石心に穿った穴に鉄製の足が残存する。鉄足付挿蓮弁(さしれんべん)技法である。この技法との関連で、下野薬師寺跡から出土した底部中央部に3~4㎜の穴に鉄製芯のある砲弾形の土製螺髪(らほつ)に注目したい。下野薬師寺に存在したであろう丈六仏と大谷磨崖仏千手観音像の技法的共通性が見られる。

第二龕 伝釈迦三尊像

第一龕の西隣、南面する前傾度のきつい崖面に造られた長方形の龕(縦6.42m、横7.43m)に造像された三尊像である。中尊は二重円光を光背にした像高3.54mの結跏趺坐(けっかふざ)した如来形座像、左脇侍は像高4.00mの菩薩形立像、右脇侍は像高3.70m、胸前で合掌した比丘形(びくにけい)立像で、三尊とも蓮花を刻んだ台座上に造像されている。寺伝では釈迦三尊像とされ、像容、台座ともと浮彫的に細部まで刻み、塑土を塗った白土下地上に彩色している。第一龕の千手観音像に比較すると、塑土の盛り上げが少ない。やや平面的な印象ではあるが、整った像容は平安時代後期の造像と考えられている。


図2 千手観音立像(オルソ画像)


図3 大谷寺

第三龕 伝薬師三尊像

南面する崖面、第二龕と第四龕間の下方に深く刻み込まれた小規模な龕(縦2.51m、横2.65m)に造像された三尊像である。中尊像は像高1.15mの如来形座像、左脇侍は像高1.30m、右脇侍は像高1.33mの菩薩形立像である。寺伝では薬師三尊像とされているが、塑土が剥落し、石の摩耗が著しく、像容は定かではない。しかし。全体的には丸みを持った像容であり、地方の一木造りに共通する作風である。他の龕と比較すると、①龕全体が小規模、②龕の彫り込みが深い、③龕製作のレベルが下位、④像容された仏像が素朴、⑤龕の側面に扉の痕跡、以上5点の特徴に注目しておきたい。

第四龕 伝阿弥陀三尊像

南面するほぼ垂直の崖面の西端に造られた長方形の龕(縦6.33m、横7.30m)に造像された三尊像である。第二龕と並ぶように造られ、三尊像の形状も第二龕と同様である。中尊像は像高2.66m、結跏趺坐した如来座像、左脇侍は像高3.36mの菩薩形立像、右脇侍は像高3.91mの胸前で合掌した比丘形立像である。三尊とも蓮花が彫り込まれた台座上に造像されている。龕内部、三尊像の上位に六躯の化仏が彫られている。寺伝では阿弥陀三尊像とされている。高肉彫りされた三尊像は豊満な姿態を示す。表面仕上げは石心に塑土に漆を混ぜたものを塗り、漆箔を施している。また、二重円光の光背は塑土で盛り上げ、彩色している。平安時代末期から鎌倉時代初頭の製作とされている。

造像順序

次に、約400年に亘り造像された大谷磨崖仏の造像順序を検討したい。造像順を明らかにすることは、磨崖仏の歴史的性格の変遷を考えることでもある。造像順序を検討する時、第一龕(千手観音立像)と第三龕(伝薬師三尊像)の前後関係が問題になる。
筆者は、第三龕⇒第一龕⇒第二龕(伝釈迦三尊像)⇒第四龕(伝阿弥陀三尊像)の順に造像されたと考える。前回でも述べたように、山林修行の拠点になった洞窟の岩壁に彫られたのは、第三龕の薬師三尊像と考える。後続する第一龕の千手観音立像造像には、東北地方の軍事的騒乱に伴う東国の社会不安と云う歴史的背景を考えている。この問題は次回で説明したい。


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