洞窟寺院大谷寺の軌跡 / 橋本 澄朗(宇都宮市文化財保護審議委員会委員長)

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古代寺院の宿命

7世紀後半には、地方豪族は権威を示す手段を古墳から寺造りに変更する。その結果、東国でも多数の寺院が建立され、さらに、仏教による鎮護国家を標榜した律令国家が建立した官寺(かんじ)(国分寺や郡役所に付属する郡寺(ぐんでら))を加えると、東国でも100に近い寺院が創建されたと推定される。これは瓦葺(かわらぶき)寺院に限定したもので、村落内寺院と呼ばれる小規模な寺院(第5回で示した辻ノ内遺跡のような例)を加えると、相当数の古代寺院が存在したと考えられる。

ところが、古代寺院の多くは姿を消す運命となる。下野国をみても国分寺・大内(おおうち)・浄法寺廃寺等の古代寺院は10世紀には衰微し、廃寺となる。それは律令国家体制の急激な崩壊と関連する。すなわち、律令国家は形骸化し、荘園制を基盤とする王朝国家期(10~12世紀)と呼ばれる時代が到来する。この時代、地方社会は根底から瓦解(がかい)し、支配者層の没落に伴い支持基盤を失った古代寺院の多くは廃寺となる。一方、天皇や貴族(権門体制(けんもんたいせい))に援助された畿内を中心に存在する寺院は存続し、古代的権威を維持するのである。このような東国での寺院動向を考えると、現在まで信仰の拠点であり続ける洞窟寺院大谷寺の軌跡は、東国では稀有な事例と云える。この間の事情を説明しよう。

洞窟寺院大谷寺の展開

前述したように、9世紀前後には金色に輝く優美な千手観音像が完成し(図1)、観音像を覆う本堂や観音を礼拝する礼堂が建立され、洞窟寺院大谷寺が成立したと考えられる。その大谷寺の次なる展開の軌跡を辿ることにしよう。


図1 千手観音立像(オルソ画像)

すなわち、王朝国家期の10世紀に第二龕(がん)伝釈迦三尊像が(図2)、第一龕(がん)千手観音像の西隣、南面する前傾度のきつい崖面に造られた長方形の龕(縦6.42m、横7.43m)に造像される。中尊は像高3.54mの結跏趺坐(けっかふざ)した如来形座像、左脇侍(わきじ)は像高4.00mの菩薩形立像、右脇侍は像高3.70m、胸前で合掌した比丘形立像(びくけいりつぞう)の三尊が蓮花を刻んだ台座に造像される。浮彫的(ふこくてき)に細部まで刻み、塑土(そど)上に彩色する。やや平面的な印象を受けるが、整った像容は10世紀前後の造像と考えられる。


図2 伝釈迦如来及両脇侍像(オルソ画像)

そして、浄土思想が広汎な広がりをみせる12世紀には第四龕 伝阿弥陀三尊像が、南面するほぼ垂直の崖面の西端、長方形の龕(縦6.33m、横7.30m)に、第二龕と並ぶように造像される(図3)。中尊像は、像高2.66mの結跏趺坐した如来座像、左脇侍は像高3.36mの菩薩形立像、右脇侍は像高3.91mの比丘形立像であり、三尊像の上位に六躯の化仏(けぶつ)が彫られる。高肉彫(たかにくぼ)りされた三尊像は豊満な姿態で、表面仕上げは石心に漆を混ぜた塑土を塗り、漆箔(しっぱく)を施す。また、二重円光の光背(こうはい)は塑土で盛り上げ、彩色している。12世紀前後、平安時代末期から鎌倉時代初頭の製作と考えられる。


図3 伝阿弥陀如来及両脇侍像(オルソ画像)

このように多くの古代寺院が消えていく王朝国家期、洞窟寺院大谷寺は10世紀前後に第二龕釈迦三尊像、12世紀前後には第四龕阿弥陀三尊像が造像され、信仰の軌跡を描き続けるのである。この背景には権門勢家ではなく、連綿とした民衆の信仰と支持が存在した結果と推測したい。そして中世になると、坂東三十三観音霊場として信仰の軌跡は継続するのである。

坂東三十三観音霊場天開山大谷寺

坂東三十三観音霊場を考える時、モデルとなった日本最古の巡礼路西国三十三観音霊場に触れなければならない。『法華経』普門品第25では、観音菩薩が衆生を救済する時、三十三の姿に変化すると説く。そこから西国に点在する三十三の観音霊場を巡礼、参拝することで現世での罪業が消滅し、極楽往生できると云う信仰が成立する。この信仰は、大和国長谷寺を開山した徳(とく)道(どう)上人が養老二(718)年に説いたとされるが、盛んになるのは11世紀の観音信仰の隆盛に伴い長谷寺を1番とする西国三十三観音霊場の前身が成立する。そして、12世紀後半には熊野詣の盛行との関連で那智山青(せい)岸(がん)渡寺(とじ)を1番とする現行の西国三十三観音霊場となったと考えられる。

この西国三十三観音霊場をモデルに成立したのが、坂東三十三観音霊場である。すなわち、鎌倉幕府初代将軍源頼朝が発願し、三代将軍源実朝が西国三十三観音霊場を模倣して、鎌倉の大蔵山杉本寺を1番に坂東諸国に三十三の札所を制定したと伝わる(図4)。下野国では17番出流山満願寺、18番日光山中禅寺、19番天開山大谷寺、20番獨古山西明寺が札所になる。坂東三十三観音霊場は成立当初より新興の鎌倉武士が重要な支持基盤と考えられる。天開山大谷寺に即して云えば、下野宇都宮氏の庇護下に古代から連綿と繋がれる民衆の観音信仰に支えられ、観音信仰霊場として繁栄を謳歌したのであろう。次回は大谷磨崖仏を巨視的視点でみていくことにする。


図4 坂東三十三観音霊場

出典(図1~3)
栃木県立博物館(2014年)「栃木県立博物館調査研究報告書 県内文化財の三次元計測」(宇都宮:栃木県立博物館)


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