再論、大谷磨崖仏とは / 橋本澄朗(宇都宮市文化財保護審議委員会委員長 )

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大谷磨崖仏を巨視的に

巨視的に大谷磨崖仏を考え結びとしたい。

まず、石窟寺院と石仏の歴史から。本来の仏教には偶像崇拝は存在しなかった。ところが、アフガニスタン北部のガンダーラ地方で2世紀前後にヘレニズム文化の影響を受け、西方的容貌の石仏が石窟寺院を荘厳化する目的で造られる。それが、仏教東漸(とうざん)に伴い各地に多数の石窟寺院と多様な石仏が造られる。著名なものをみていこう(図1)。

まず、インドのデカン高原に造られたアジャンタ石窟寺院。紀元1~7世紀に造られた30の石窟寺院は優美な壁画や彫刻で荘厳化され、色鮮やかな壁画はグプタ様式の極致で、法隆寺金堂壁画にも影響を与えている。次にアフガニスタンのバーミヤンの石仏。標高2500mのバーミヤン渓谷に1世紀から1000以上の石窟が造られる。なかでも5~6世紀に造像された像高55mの西大仏と像高38mの東大仏は、2001年タリバンによって爆破されたことでも有名である。

さらに、中国には敦煌(とんこう)・雲崗(うんこう)・竜門(りゅうもん)石窟がある。まず、敦煌石窟は莫高窟(ばっこうくつ)とも云い、シルクロードの要衝、甘粛省(かんしゅくしょう)敦煌市の郊外に所在する。鳴沙山(めいさざん)断崖に約2㌔、4~14世紀の間に492の石窟寺院が造れた。岩質が脆いため表面を塑土で仕上げて彩色された仏像や壁画で有名である。次の雲崗石窟は、山西省大同市の西、40の石窟寺院が造られ、霊巌寺とも呼ばれている。5世紀後半に造像された大型な石仏は、ガンダーラやグプタ様式の影響が看取される。雲崗石窟に後続するのが、河南省洛陽市の南、黄河の支流伊河の両岸に造られた竜門石窟。6~7世紀が中心で千数百の石窟に10万にも及ぶ石仏が造像されている。細面長身の優美で繊細な仏像で中国固有の造像技術の確立が認められる。

上記の石窟寺院や石仏の延長上に大谷磨崖仏が存在する。地域史的な視点ばかりかグローバルな視点で大谷磨崖仏を考えることも有効かつ必要と考えられる。


図1 世界の磨崖仏

安如宝(あんにょほう)と平和観音

大谷磨崖仏の源流を辿ると、前述したように壮大な歴史と文化の交流を垣間見る想いがする。交流の一端を担ったと想定できそうな人物がいる。鑑真と共に来日した安如宝である。安如宝の「安」は中央アジアのサマルカンド地方の安国のことで、ソクド人と推測される。その如宝が授戒の師として下野薬師寺に下向(げこう)した可能性がある。如宝から中国さらには西域の石仏や石窟の情報が伝えられたとする魅力的な見解がある。しかし、如宝の下野薬師寺下向には議論の余地があり、下向したとしても下野薬師寺の戒壇院設置が761年、鑑真の臨終に呼び寄せられたのが763年と短期間である。ただ、如宝は長命で、弘仁6(815)年まで存命しており、この間に下野薬師寺の関係者に大陸の石窟や石仏の情報を提供した可能性は否定できない。推測の域を出ないが検討すべき課題である。

最後に、今日的視点で大谷磨崖仏を考えてみたい。民衆の支持で古代から現在まで信仰の拠点として存続した大谷磨崖仏。その御前立(おまえだ)ちの役割をしているのが、大谷寺門前に造像された大谷平和観音である。すなわち、平和観音は太平洋戦争の戦死者を追悼する目的で、昭和23(1948)年から6年、大谷石採掘跡の壁面に総手彫りで造られた石造観音立像である。像高は26.93m(88尺8寸8分)と巨躯であり、観音像の前は広場、観音像周辺までは階段や通路が整備され、大谷の街が一望できる。大谷磨崖仏そして平和観音のエリアこそ古代から現在に至るまで民衆の祈りの場であり、憩いの場であった。それは大谷観光の原点でもある。大谷磨崖仏と平和観音。時代を超えて平安を祈念する人々の想いは共通する。

出会いと学び

私は大谷磨崖仏を考える中で、多くの人と出会い、学ぶことができた。その出会いと学びを参考文献の提示を兼ねて記すことにする。私の専門は考古学であり、美術史は全くの門外漢。その私が大谷磨崖仏に関心を持ったのは故水野正好先生(前奈良大学学長)が文化庁在職中に「大谷磨崖仏を考古学から研究したら」の一言。この助言が大谷磨崖仏への論文(橋本 2002・2008)となる。前後するが、私が宇都宮大学一年時、大谷洞穴遺跡調査が実施され、調査で中心的な役割を果たした塙静夫先生(塙 1979)には、考古学を学ぶ上で多くの学恩を受けた。さらに、大谷を中心とする考古学的成果については、私の後輩で栃木県考古学会長の梁木誠氏(梁木 1983・2018・2020)の研究から学び、宇都宮市野沢遺跡の調査成果(後藤 2003)からも多くの知見を得た。磨崖仏造像の背景に下野薬師寺の存在を考えたが、その契機は下野薬師寺の造瓦所を水道山瓦窯跡とした故大川清先生の研究(大川 1982)であった。先生からも考古学の方法論を含め多くのご教授を受けた。

今回の小論の核心部は、磨崖仏造像の契機を下野薬師寺の僧侶の山林修行との関連で考えたことだが、それは上原真人氏の研究(上原 2011)による。さらに、山林修行の具体例として空海を取り上げたのは、竹内孝善氏(竹内 2017)からの学びである。竹内氏は私の真岡高校時代の同級生、医師であり獨古山(どっこさん)西明寺住職であった故田中雅博氏の誘いで高野山大学から益子に移住した関係で、ご教授の機会に恵まれた。次に磨崖仏の造像については、保存修理報告書(西川 1965)を参考にした。さらに私の栃木県立博物館時代同僚であった上野修一氏らによる三次元計測(上野 2014)で視覚的に大谷磨崖仏を検討できた。

次の千手観音立像造像事情を当時の社会不安を契機とする下野の観音信仰の展開との関連で考えた。まず、男体山の補陀落(ふだらく)信仰については、「勝道碑文と男体山頂遺跡」 (橋本 2001)で検討した。観音の遺存例としての大関観音は、栃木県立博物館時代の上司であった北口英雄氏が担当した展覧会(北口 1989)で実見。下野仏教文化の豊穣さに感銘し、平安時代の下野仏教文化への関心の契機となった(橋本 1992・95)。観音像を納めた遺構については、宇都宮市辻の内遺跡(芹沢 1992)を取り上げたが、それは須田勉氏の研究成果(須田 1985・2001)によるところが多い。そして、千手観音信仰の実例として多功南原遺跡(山口 1999)から大量に出土した千と書かれた墨書土器に注目した。今回、巨視的な視点からも大谷磨崖仏を検討したが、その契機は北口英雄氏の研究(北口 2019)に触発された結果である。

最後に、小論掲載に当たりお世話になった宇都宮市教育委員会事務局今平利幸氏・清地良太氏、宇都宮大学地域デザイン科学部高橋俊守氏・上原裕世氏に謝意を表する。特に、上原さんが上原真人氏の姪と聞き、因縁めいたものを感じ驚いた次第である。

 

参考文献
上野修一他 2014 『栃木県立博物館調査研究報告書 県内文化財の三次元計測』 栃木県立博物館
上原真人 2011 「国分寺と山林寺院」 『国分寺の創建』 吉川弘文館
大川 清 1982 『水道山瓦窯跡』 宇都宮市教育委員会
北口英雄 1989 『下野の仏像』 栃木県立博物館
北口英雄 2019 「大谷磨崖仏と石心塑像」 『栃木県の仏像・神像・仮面』 随想社
後藤信佑他 2003 『野沢遺跡・野沢石塚遺跡』 栃木県教育委員会
須田 勉 1985 「平安時代初期における村落内寺院の存在形態」『古代探叢Ⅱ』 早稲田大学出版会
須田 勉 2001 「東国における双堂建築の出現―村落内寺院の理解のために―」 『國士舘史學』 第9号 國士館史學會
芹沢清八 1992 『辻の内遺跡・柿の内遺跡』 栃木県教育委員会
竹内孝善 2017 『空海はいかにして空海になったか』 角川書店
西川杏太郎他 1965 『大谷磨崖仏保存修理報告書』 大谷寺
橋本澄朗 1992 「平安時代後期における仏教の展開に関する覚書」 『栃木県立博物館研究紀要』 第9号
橋本澄朗 1995 「下野における平安時代の仏教文化の展開についてー平安仏と考古資料の視点からー」 『宗教・民衆・伝統』 雄山閣
橋本澄朗 2001 「勝道碑文と日光男体山山頂遺跡」 『山岳修験』第28号 日本山岳修験学会
橋本澄朗 2002 「大谷磨崖仏像の歴史的背景についてー下野における観音信仰との関連でー」 『研究紀要』 第10号 栃木県埋蔵文化財センター
橋本澄朗 2008 「大谷千手観音立像造像に関する一考察―下野仏教史の展開の中で―」 『多知波奈の考古学』
塙 静夫 1979 「縄文時代」 『宇都宮市史 原始古代編』 宇都宮市
簗木 誠 1983 『針ヶ谷新田古墳群』 宇都宮市教育委員会
梁木 誠 2018 『根古谷台遺跡(縄文時代編)』 宇都宮市教育委員会
梁木 誠 2020 『割田古墳群』 宇都宮市教育委員会
山口耕一他 1999 『多功南原遺跡』 栃木県教育委員会


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