大谷石は、地元の宇都宮周辺では、古墳、寺社、城などに古くから使用されてきた。天明8年(1788)に宇都宮を訪れた古川古松軒(ふるかわこしょうけん)は、「この辺は石の和(やわ)らかなるありて、それを瓦の如く削りなして、堂塔の屋根に葺くなり、他国にはなき石なり」と述べている*1。他国にはないやわらかい石、つまり大谷石とみられる石が、宇都宮では寺院の屋根瓦として使用された様子を観察している。日本各地を巡り歩いた古松軒が、他国にはないと評していることから、この頃はまだ、大谷石は地元以外ではそれほど知られていなかったことが伺える。
この大谷石が、地元以外、なかでも最大の市場である東京で本格的に販売されるようになるのは、明治時代も半ばを過ぎてからである。重量のある石材を生産地から遠く離れた地で販売するには、その重量を克服する輸送手段を確立しなければならなかったからである。明治18年(1885)、上野―宇都宮間に鉄道が開通すると、鉄道の利用による市場の拡大が図られ、まずは弘石舎(こうせきしゃ)、次にはそれを引き継ぐ下野石会社が設立された*2。前者の弘石舎設立時の「石売買約定書」には「栃木県下野国河内郡荒針村外各村ヨリ切出石材売買ノ約定ナシ、東京各人ト御協議、東京へ発売セントス」とあり、「栃木県河内郡荒針村 石山持主石工惣代」の3人が、「宇都宮弘石舎主」と「東京売捌人(うりさばきにん)」2人の計3人と契約し、大谷石を東京で販売することが記されている*3。
しかし、これらの事業は成功には至らず、解散を余儀なくされた。本格的な東京販売が実現するのは、明治29年(1896)の宇都宮軌道運輸株式会社の設立を待たなければならなかった。同社は、軌道上の車両を人の力で押して貨物や乗客を運ぶ人車(じんしゃ)を運行する会社である。大谷石の生産地と鉄道駅を結ぶ輸送手段として人車軌道ができたことで、運輸手段が確立したのである。明治36年(1903)に人車軌道が日本鉄道鶴田駅につながると、人車軌道と鉄道が連結した。こうして大谷石の採掘額は、順調に伸びていったのである*4。
明治時代の本格的な東京販売への挑戦は、現在知られる限りでは、弘石舎が最も早い事例ということになるであろう。しかし、実はそれよりも6年早い明治12年(1879)に、すでにその挑戦は始まっていた。それを今に伝えるのは、江戸時代に代々にわたり江戸の名主(なぬし)を務めた馬込家のもとに伝来した古文書である。
馬込家文書は614点の古文書等からなる史料群で、現在は東京都江戸東京博物館に所蔵されている*5。馬込家の当主は代々「勘解由(かげゆ)」と名乗り、江戸の中心部である日本橋地域の町人地の名主を世襲で務めた。地域の代表として町々を治めるという、名主としての通常の役割だけではなく、馬込家は、初代当主の娘がイギリス人のウィリアム・アダムスに嫁(か)したと言われたり(真偽は不詳)、六代当主の息子が養子入りした先の大名家で殿様になったり、八代当主の頃から宇都宮藩戸田家の財務を引き受けたりするなど、興味深い話題に事欠かない*6。このうち、後者の宇都宮藩戸田家との関係が縁となり、十一代当主は明治時代に栃木県内で養蚕(ようさん)業(蚕種製造)を行い、綿糸(めんし)や麻糸(あさいと)の製造も模索するなど、さまざまな殖産興業の事業に挑戦した。その数々の挑戦のなかの一つが、大谷石の東京販売である。
(2)につづく
*1 古川古松軒『東遊雑記―奥羽・松前巡見私記―』(東洋文庫27、平凡社、1964年)。古川古松軒は備中国下道郡新本村(現在の岡山県総社市)出身。年少より地理学を好み、機会さえあれば各地を旅行したという。天明3年(1783)には西日本を旅行し『西遊雑記』を執筆。同8年には幕府の巡見使(じゅんけんし)に随行して、蝦夷地を含む東日本を歩き、『東遊雑記』を著した。
*2 弘石舎や下野石会社については、『城山村地誌』(私家版、宇都宮市立中央図書館所蔵、1931年)に詳しい。
*3 「弘石舎設立石売買約定書」(大野登士『大谷石むかし話』地芳社、1980年、より引用)。
*4 以上の明治以降の大谷石をめぐる動向については、『宇都宮市史』近・現代編Ⅰ(宇都宮市、1980年)、『栃木県史』通史編7・近現代2(栃木県、1982年)参照。
*5 馬込家文書については、『大伝馬町名主の馬込勘解由』(東京都江戸東京博物館調査報告書第21集、2009年)、『江戸の町名主』(同第25集、2012年)参照。
*6 馬込家の歴史については、髙山慶子『江戸の名主 馬込勘解由』(春風社、2020年)に詳しい。