明治前期における大谷石の東京市場開拓(2)/髙山慶子(宇都宮大学共同教育学部准教授)

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馬込家文書には、栃木県の官吏であったとみられる仲田信亮が、明治12年(1879)8月17日から9月11日にかけて、東京の馬込惟長に宛てた5通の書簡がある*7。惟長は、勘解由(かげゆ)と名乗っていた十一代当主が明治以降に使用した名前である。これら5通は、冒頭に「壱 八月十八日着」などと朱筆で書き込まれ(写真1)、壱から五まで、ひとまとめに綴じられている。その朱筆の書き込みと本文が同じ筆跡であることから、これらは仲田の書簡を惟長が書き写して、手元で整理・保管したものと考えられる。

一通目の明治12年8月17日付けの書簡には、「東京近来石類莫大之御用途随而、豆・相追々深山ニ相進ミ不弁附而、当栃木管内より産出大屋(谷)石深キ御見込有之旨ヲ以、云々御問合之趣領承(後略)」(字句修正のふりがなは朱筆)と記されている(写真1)。「豆」は伊豆国(現在の静岡県)、「相」は相模国(現在の神奈川県)のこと。この頃の東京では莫大な石の需要があり、石の生産地である伊豆と相模では石山の奥深くまで掘り進められ、不便になってきた。そのような折に、栃木県で産出される大谷石について、惟長が「深キ御見込」(深いお考え)をもって仲田に問い合わせをし、仲田はその内容を承知したという。伊豆石といえば、江戸城の石垣にも使用された著名な石材であるが、それらの石の産出が次第に困難になる中での「深キ御見込」とは、今こそ大谷石を東京で販売しようということであったと考えられる。

惟長の大谷石に関する問い合わせを受けて、仲田はこの書簡で大谷石について次のように説明している(写真2・3)。

一、大屋(谷)石は河内郡荒釘〔針〕(アラハリ)村字大屋(谷)ト申所より産出、其適用ハ第一石蔵・石室及ヒ屋根ニ用ヒ、水火ニ至而丈夫、先年或ル西洋人宇都宮通行之砌り、石蔵ヲ熟覧、練〔煉〕瓦より遥カニ優ルト申候由、又曽而地理局官員白野夏雲ト云人、河内郡巡廻之砌、大屋(谷)石ヲ一見いたし、建築石ニは全国第一等之石質ト賞誉致シ候由、石産出之場所は隣村駒生村立岩新田江跨り候大山ニ付、当分何程切出シ候テモ容易に切尽シ候様之儀無之、東京運搬は石井河岸江陸路三里半、同所より船積絹川〔鬼怒川〕通り、右大谷石幸便有之、山元より取寄申候間、不日通運継ヲ以御廻送致候条、其質篤と御熟覧可被成、且東京深川材木町(油堀ノ際)元宇都宮藩買上地中に大谷石ヲ以建築いたし候石蔵有之候旨伝承候間、御心得ニ申上候条、御聞糺シ有之度候

(  )は割書、〔  〕は引用者による注、字句修正のふりがなは朱筆

仲田の説明によれば、大谷石は河内郡荒針村の大谷で産出される石で、第一に石蔵や石室および屋根に使用され、水や火に極めて強いという。ある西洋人が宇都宮に来たときに、石蔵をじっくりと見て、煉瓦よりはるかに勝ると述べていたことや、明治政府の地理局の官吏である白野夏雲(しらのかうん)が河内郡にやって来て大谷石を見たときに、建築用の石材としては全国第一等の石質であると誉めていたことが記されている。大谷石のよさは、当時からすでに、見る人が見たらすぐにわかったのである。

大谷石の生産地は、隣村の駒生村や立岩新田にまたがる大きな山なので、当分はどれほど切り出しても容易に切り尽くすことはない。東京への運搬は、石井河岸までの3里半(約14キロメートル)は陸路、そこからは鬼怒川の水路を利用するという。このように大谷石の品質や運搬方法を説明した上で、仲田は大谷石の見本を産地から取り寄せ、近日中に惟長に送るので、よく品質を確かめるようにと述べている。また、東京の深川材木町(現在の江東区福住二丁目)にある、かつての宇都宮藩が買い上げた土地に、大谷石を使用した石蔵があるとの情報も伝えている。

この一通の書簡から、東京の馬込惟長は栃木の仲田信亮と連絡をとりながら、大谷石を東京で販売しようとしていたことが明らかになる。

(3)につづく

*7 髙山慶子「栃木県官吏仲田信亮の旧江戸町名主馬込惟長宛書簡―大谷石などの栃木県産石材をめぐって―」(『宇都宮大学教育学部研究紀要』第66号第1部、2016年)。本論文では、5通すべての書簡の全文が翻刻されている。宇都宮大学学術情報リポジトリUUAIRで閲覧・ダウンロード可能(https://uuair.repo.nii.ac.jp/)。惟長の読みは不明。「これなが」か「ただなが」か。

以下の写真1~4は、明治12年8月17日付けの一通目の書簡である。
(「馬込惟長宛書簡綴(大谷石購入などにつき)」東京都江戸東京博物館所蔵、大伝馬町名主馬込家文書、資料番号09000762)


写真1 書簡の冒頭部分
本文の3行目(下から4文字目)に「東京近来」とはじまる文章を確認できる。大谷石を「大屋石」と書き写し、「谷」と朱筆で訂正したのは、惟長の書き誤り(写し間違い)であったと推察される。


写真2 写真1の続き(最初の1行は写真1の最後の1行と重複)
大谷石の説明部分。


写真3 写真2の続き(最初の1行は写真2の最後の1行と重複)
大谷石の説明部分。


写真4 写真3の続き、書簡の文末部分(最初の1行は写真3の最後の1行と重複)
最後の追伸(「○」以下)には、「栃木最寄本月十二日以来、虎列刺七八名相見江申候、拙宅は充分予防法相行ヒ、挙家一同養生専一ニ相守り居候間、乍憚御安神可被下候」とある。「虎列刺」はコレラのこと。当時は栃木でコレラが流行っており、仲田は家族一同、予防・養生に努めているのでご安心下さいと惟長に伝えている。今も昔も、人びとは流行病や感染症に向き合っていたことが知られる。


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