私と旧帝国ホテル・ライト館(内幸町)との出会いは、大学2~3年の頃だと思う。私の知人(宇都宮在住・早稲田大学建築学科出身)が時々、帝国ホテルに泊まりに来て何度か呼び出しがあった。2階ラウンジでコーヒーを飲みながら、時には客室の中を案内されながらF.L.ライトの話を聞かされたりした。
そんな中、1967(昭和42)年11月15日で閉館ということになった。私は11月14日の閉館前日、宿泊客がごった返す中こっそりと写真撮影をしてきた。ロビーやラウンジは人が多く、とても撮影する奮囲気ではなく人気のないところをぐるぐると廻り、両翼の階段を上がり、ギャラリーを抜け、ティバルコニーからサンデッキに出て、下を見下ろすと、ポルト・コシェの屋上越しに池や道路(日比谷通り)が見えた。
屋上周りの大谷石がかなり汚れ、黒ずんでいるのが印象に残った。それからルーフガーデンよりバンケットホールホワイエのファサードの一部の精巧に作られたテラコッタの面格子が目に入った。又、ルーフガーデンよりロビー上部に位置する図書館の外部も撮影できた。客室(北側棟)へ通じるブリッジから婦人用ラウンジを望み、庇廻りや窓台の外装の大谷石が風化や汚れが酷かったのを記憶している。明治村の復元されたものは、その辺を考慮してか擬石で作っている。ロビー空間は全体的に薄暗く、吹き抜け部分以外は思ったより天井が低い印象であり、ロビー奥の大胆な生け花(洋風)がスポットライトを浴び、ひときわ華やかであった。
今の明治村に復元されたライト館も1976(昭和51)年築から40数年が経過し、内幸町のライト館とほぼ同じ経年になるが、風化や汚れ具合は比べ物にならないくらい本物(内幸町)の方が酷かった。おそらく、都心部に存在した故に、車の排気ガスや酸性雨等に常時晒された結果や長年の雨漏り等が老朽化に拍車をかけたと思われる。
本来の大谷石の輝きやスクラッチタイル(すだれ煉瓦)の鮮やかな黄褐色の輝きもなく色褪せており、この時は正直なところ旧帝国ホテル・ライト館といえども特別な印象を持たなかった。多分私がまだ学生であって、建築にさほど精通していたわけでもなかったからであろうと思う。1923(大正12)年の竣工からわずか44年の建築生命であった。
明治村に移築復元されてから3度ほど見学に訪れているが、床や天井のメリハリのある空間構成の見事さを改めて感じた。大谷石やスクラッチタイル、テラコッタのコラボレーション、照明等の演出も見事と言えよう。特に2期工事での内部の大谷石の装飾の精巧さは「大谷」の石工職人の誇りであろう。
F.L.ライトが来日し、旧帝国ホテル・ライト館等の設計をした事は、日本の建築の近代化に大いに影響を及ぼしたと言われている。そして、その内外装に「大谷石」を使用したことはその産地「大谷町」にとって衝撃的な事であった。それまで宇都宮周辺では擁壁、石塀、石蔵等に多く使われ、都内でも擁壁、石塀、道路の排水溝程度が多く、本格的な建築物は少なかった。
ライトが最初に使おうとした「蜂の巣石(石川県産の石)」は産出量が少なく断念したそうである。その代わりに「大谷石」に白羽の矢がたった。
旧帝国ホテル・ライト館の建築に使われ、一気に近代建築に使われるようになる。宇都宮市内では、カトリック松が峰教会(1932(昭和7)年築)、聖ヨハネ教会(1933(昭和8)年築)、旧大谷公会堂(1929(昭和4)年築)、解体されてしまったが旧県教育会館(1935(昭和10)年築)、一部移築保存された旧宇都宮商工会議所(1928(昭和3)年築)、仲見世通りの映画館、その他公共建築や商業建築にも多用された。全国各地に凝灰岩等の「石の文化」が多く存在するが「大谷石」ほど建築の素材として、関東首都圏はもとより、全国或いは世界に普及したものはないであろう。石の「素材としての特質」、大谷町という輸送手段を含めた「地の利」、建築家「F.L.ライトの存在」が大きく影響していることは、紛れもない事実である。