旅先で見かけた大谷石 -旧東海道にて- /神野 安伸(下野民俗研究会)

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趣味で旧東海道を散策しているが,ところどころで大谷石を見かける。旧東海道という線の上だけでの見分であり,きちんと記録を取っているわけでもない。また石の種類は私の見た目での判断である。したがってデータとしての意味はないが,あくまで私的な印象という前提で記してみよう。

大谷石のような軟石の用途としては,石塀が主体となるのはどこも同じようである。ただし,宇都宮周辺などに比べて花崗岩など硬石の比率が高く,そればかりか石塀自体が少なく見える。石蔵の比率はさらに低く,明らかに土蔵が多い。それでも曖昧ながら以下のような傾向が感じられるのは興味深い。

神奈川県内は大谷石・房州石・伊豆軟石が混在しているが,箱根を越えて静岡県に入ると伊豆軟石が大部分を占めるようである。そのまま静岡県の伊豆・駿河地域(三島市・沼津市・富士市・静岡市など)ではその傾向が続く。

ところが,藤枝市・島田市・掛川市といった,大井川をはさんで駿河・遠江にまたがる地域では大谷石を(大谷石に限らずその他の軟石も)あまり見た記憶がない。石塀が少ないせいだろうか。

改めて大谷石を意識したのは,磐田市街地(旧・見附宿)を過ぎたあたりである。民家に大谷石の石塀があることに気が付いた。

天竜川を越えて浜松市に入ると,3~4キロに一箇所程度であるが,大谷石塀を見かける頻度が増えた。なお,浜松市街地には大谷石に見える石蔵があった。表面の剥落が著しく,蔵全体に防護網がかけられていた。これが確かに大谷石だとすると箱根以西で大谷石の石蔵を見たのはこの一棟のみである。(大谷石以外の石蔵はある。)

以後,浜松市・湖西市,そして愛知県に入って豊橋市・岡崎市までほぼ同じような傾向が続いた。今のところ最も西で見かけた大谷石は,岡崎市街地の商店の前にあった石像の台座である。

さて,以下は思い付きである。

旧東海道沿いに近世の建造物自体はあまり残っていないものの,当時の家屋構造や地割を引き継いでいる街並みは多い。江戸時代は道路と家屋の境に石塀を築くことはほとんどなかった。当時の絵図や現存遺構などを見ると,宿場内の旅籠などは出入口が直接道路に面している。また,武家や寺院などの中で格式が高い建物には土塀が使用された。石は,石垣など土木構造物への使用が主体だった。当時の輸送実態では遠隔地への石の輸送は困難だったこともあるだろう。

したがって石塀は,宿場がその機能を失った近代以降に作られたものであろう。さらに言えば,大谷石の表面に手掘りの採掘痕を残すものが見当たらないことから,採掘の機械化が確立した昭和30年代中頃以降に,トラックによって運ばれていったものが大半と思われる。

静岡県東部で大谷石をあまり見かけず,静岡県西部と愛知県三河地方で多くなるのは,伊豆軟石の大産地である伊豆半島北西部との距離・大谷石と伊豆軟石との生産量や価格との関係・輸送手段の変化などが相俟った結果だろう。

想像をたくましくするならば,昭和40年代から50年代にかけて莫大な生産量を可能にした大谷石が,トラック輸送により自由度を増した輸送環境を生かして,広域流通を実現した一端が垣間見えているものと思われる。

箱根以西では先述の一棟のみを除いて建築材としての利用は見られず,土木材利用(擁壁など)はまったく見ることができなかった。静岡県・愛知県では,ほぼ外構材(石塀)としての需要だけだったのだろうか。

実は私の東海道散策は,矢作川の橋の手前までしか進んでいない。今後,より西では,どのくらいの量の,どのような利用形態の大谷石を見られるか,関心をもって歩いてみたい。


▲ 浜松市東区の石塀


▲ 浜松市街地の石蔵(表面剥落のため網がかけてある)


▲ 豊橋市内の石塀


▲ 岡崎市内の石塀


▲ 岡崎市街地のモニュメントの台座

 


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