ライトによって拓かれた大谷石文化の近代(2)/ 橋本 優子(宇都宮美術館専門学芸員)

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フランク・ロイド・ライトの「旧・帝国ホテル ライト館」[竣工1923(大正12)年~閉館1967(昭和42)年]は、数奇な運命に揉まれ、そのなかで大谷石の担う役どころが浮き彫りになった、としても過言ではない。

設計者の選定からして、1909(明治42)年8月に支配人を拝命した林愛作(はやしあいさく)のイメージする「平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)」が出発点にあった。これを踏まえて林は、翌年、武田五一(たけだごいち)(当時、京都高等工芸学校教授)に助言を求める 1)。1911(明治44)年には下田菊太郎(しもだきくたろう)を抜擢し、設計素案の報道発表まで行いながら 2)、旧知のフレデリック・グーキンから推挙されたライトの起用に傾いていく。

ちなみに鳳凰堂は、1893(明治26)年のシカゴ万国博覧会日本館(鳳凰殿)のベースとなった。但し万博会場では、平安・室町・江戸時代の日本建築の特質を加えたものに換骨奪胎されている 3)。わが国に新芸術 4)をもたらした武田は、同時代の動向に明るい学者・実務家として鳳凰堂の保存、大蔵省の国会議事堂計画 5)に尽力するかたわら、ライトの真価も見抜いて親交を結ぶ。

下田とライトは、鳳凰殿の登場当時、まさにシカゴで競合関係にある事務所 6)に身を置き、それぞれ修行に励んだ因縁を持つ。その後、シカゴで独立した下田は、鉄骨・鉄筋コンクリート造の知見を身に着けて帰国、不遇を託(かこ)ちながらも国際的な仕事で知られ、さらに後年、帝冠(ていかん)様式 7)と呼ばれる和洋折衷スタイルを掲げ、西洋の古典に倣った議事堂競技の入選案を糾す。浮世絵収集・研究に長じた銀行家のグーキンは、日本美術の展覧会と書籍でライトと協働し、肝心の林は、古美術商の山中商会ニューヨーク支店勤務を通じてグーキンやライトを知り、商会時代の手腕を買われて帝国ホテルに転じた。

以上が「ライト館」の根底に横たわっている。


旧・帝国ホテル ライト館(博物館明治村 帝国ホテル玄関)内部
設計=フランク・ロイド・ライト|竣工1923年|筆者撮影
撮影協力=博物館明治村


パンフレット『IMPERIAL HOTEL』
表紙・裏表紙
発行1927年~昭和初期|宇都宮美術館蔵

興味深いのは、グーキンに対して林が「先進に走らず、依頼者側の条件を呑むならば、ライトを筆頭候補に挙げたい」 8)と返信した点だ。発端となった鳳凰堂、武田への相談も含めて、のちに「ライト館」として知られる建造物には、初めから「近代の眼差しに則る日本らしさ」が求められたのである。こうして林はライトに接触し、1913(大正2)年1月にライトが来日。一方、下田による「自身の素案をライトが盗用した」という主張は、関係者の間に軋轢(あつれき)を生む 9)。だがそれは、ここでいう「日本的な近代建築」の姿かたちが明確だったことの証しとも言える。

明治天皇の崩御、第一次世界大戦の勃発で空白が生じたものの、1916(大正5)年、林がアメリカでライトと正式契約を結ぶと、同年11月の株主総会で工事が議決、ライトは年末に東京を訪れる。明くる1917(大正6)年1月、林の紹介で遠藤 新(えんどうあらた)(当時、明治神宮造営局員)が来日中のライトと会い、4月に渡米してタリアセン事務所の所員となる。基本設計は約一年で終了、1918(大正7)年12月にライトと遠藤が東京へ赴く。しかし、用地の確保で滞って着工は1919(大正8)年9月に延び、ライトは三年続きの師走、実施設計・現場監理のために起用した元部下のアントニン・レーモンドを伴って来日する。

モダニズム志向のレーモンドは、「この建物と、日本の風土・伝統・生活・文化は接点がない」 10)と捉えた視点が注目に値し、大谷石、簾煉瓦(すだれれんが)、テラコッタ・タイルをコンクリート壁に張る、という手法にも懐疑的だった。結局、レーモンドの関与は一年で終わり、1921(大正10)年1月に東京事務所を退く。「ライト館」は遠藤ら日本人スタッフが引き継ぐが、1922(大正11)年4月に林が支配人を辞任、7月のライト帰国と苦渋は絶えない 11)。とりわけ、予想外の莫大な工費、工期の遅れは如何ともし難かった。

ライトは元より、これほど多くの人々が向き合った大事業は、近代国家を代表する迎賓・宿泊施設の屋内外に、それに相応しい和のディテールを散りばめれば済む話ではない。柱・梁から成る架構式(かこうしき)構造、水平基調の空間と視覚、その複雑な連続が生む有機性、異素材・技法の併用、美術工芸的な拘り、簡素と装飾、建物と自然の調和という日本建築の特質、鳳凰堂に漲(みなぎ)る浮遊感と、近代的な都市ホテルの機能、耐震・防火など、諸々の要件をすり合わせた結果、総面積34,000㎡余、地上5階建ての「コンクリートの箱の集まり」に至り、これを地盤が脆弱な日比谷に造営せねばならなかったのである。

なかでも、日本らしい構造、配置、意匠を、近代の精神、ニーズと合致させるには、木を用いた在来工法の規模・強度の限界のみならず、硬石や煉瓦の組積造(そせきぞう)を進める欧化主義、その不都合な様式美と権威性、わが国の風土・文化との乖離を乗り越えることが課題だった。加えて鉄筋コンクリート造の施工技術は、大正年間に木製型枠(がたわく)の効率的な加工法が開発されたばかりで、煉瓦生産のピーク期にも相当することから、「ライト館」の型枠には煉瓦が採用される 12)。

このようにして、長い梁と高い柱で構成され、水平性が感じられる多数の大空間、それらの段丘状の広がり、めくるめく有機的な全体を呈する建造物が出現する。否応なくコンクリートと一体硬化する型枠煉瓦は、補強と化粧を兼ねる石・陶で彩られた。その石が「大谷石」となった社会的な事由は、本連載の第一回で述べた通りだが、西洋に阿(おもね)る視点では格付けが低い軟石を巡り、周囲の戸惑いがなかった訳ではない。

しかしライトは、木・土との親和性を湛える石への執着を貫き、施釉陶板(せゆうとうばん)や金泥彩飾(きんでいさいしょく)と分け隔てなく扱い、擬洋風でも擬和風でもない意匠を試みた。そして、それが近代の文脈で昇華された和の空間と物理的に不可分だったところに、「ライト館」の意義がある。従ってこの建物は、ライトの独壇場とは言えず、林の立ち回りだけでも具現化されなかった。武田、下田、遠藤 13)、レーモンドらの理解や批判、帝国ホテルと大倉組土木部の努力、工人の協働の結実に他ならない。

畢竟(ひっきょう)、大谷石に代表される日本の凝灰岩は、20世紀の世界建築史に名を残すことになり、これを契機に開花した地域の近代建築は、次回の連載以降で記していく。


旧・帝国ホテル ライト館 大食堂の柱
施工=大倉組土木部|博物館明治村蔵|筆者撮影
撮影協力=博物館明治村


旧・甲子園ホテル(武庫川女子大学 甲子園会館)外観
設計=遠藤 新|竣工1930年|筆者撮影
撮影協力=武庫川女子大学 甲子園会館

(注)
1. 1902(明治35)年、京都高等工芸学校の創設に携わった武田は、京都府の技師も兼任するかたちで、地域の歴史建築の保存・修復に貢献し、鳳凰堂の研究では第一人者だった。1908(明治41)年には論文発表も行っている。その翌年にアメリカから帰国して帝国ホテルを預かった林のアプローチ、両者のやり取りについては、下記を参照されたい。
足立裕司(1988) 「帝国ホテル建設経緯に関する一考察」, 『日本建築学会大会学術講演梗概集』, 日本建築学会.
2. 下田によると、林からの設計依頼は1911(明治44)年で、明くる年には日米の新聞などを通じ、略設計二案が図面とともに詳しく報じられた。
林 青梧(1981) 『文明開化の光と闇:下田菊太郎伝』, 相模書房.
3. わが国の万博参加史上、初めて本格的に造営された日本館で、正面は江戸時代の大名屋敷、向かって右手に室町(足利)時代の書院と茶室を配し、左側が平安(藤原)時代の鳳凰堂を手本とするハイブリッドな三棟構成だった。設計は久留正道(くるまさみち)により、室内装飾を東京美術学校、展示物(美術工芸品)の選定は帝国博物館が担当している。1892(明治25)年からアメリカの高校・大学に学んだ林にとっての鳳凰堂は、この鳳凰殿の印象も強かったと想像される。
4. イギリスのグラスゴー派(アーツ・アンド・クラフツ運動の一派)、フランスやベルギーのアール・ヌーヴォー(新しい芸術)、ドイツ語圏のユーゲントシュティール、分離派やウィーン工房、イタリアのスティーレ・リベルティ、スペインのモデルニスモなどを総称する19世紀末~20世紀初頭の装飾様式で、ジャポニスム(日本趣味)の新展開となる。
5. 明治から昭和戦前に至る議事堂計画については、本連載の第一回を参照のこと。
6. その頃、ライトはアドラー&サリヴァン建築設計事務所(1888~1893年)、下田はアーサー・ページ・ブラウン建築設計事務所シカゴ万博カリフォルニア館現場事務所(1892年)を経て、ダニエル・バーナム建築設計事務所(1893~1895年)の所員だった。※カッコ内は勤務年
7. 昭和戦前(1930年代)に一世を風靡(ふうび)し、鉄骨・鉄筋コンクリート造の近代建築に日本式の瓦屋根を戴くスタイルで、当時の官庁建築に多く見られる。下田による提唱は1919(大正8)年に遡り、当初は帝冠併合式と称された。
8. 林からグーキンに宛てた1911(明治45)年10月の手紙による。
Nute, Kevin. (1993) Frank Lloyd Wright and Japan. New York: Van Nostrand Reinhold.
9. 自身の略設計二案(注2参照)を林がライトに内示したのではないか、という下田による著作権の申し立てを指す。それほど下田とライトの設計案は似通っており、林の態度も問題視されたに違いない。本件については、林とライトが帝国ホテルを離れ、「ライト館」が竣工して三年後の1926(大正15)年、ホテル側が金銭的解決を図っている。
10. レーモンドの考え方は、東京で独立後に手掛け、日本における打ち放しコンクリート住宅の先駆となった「霊南坂(れいなんざか)の自邸」(1924-26年)に窺われる。「ライト館」に関するコメントについては、下記を参照されたい。
Stewart, Dennis B. (1987) The Making of a Modern Japanese Architecture. New York: Kodansha International.
なお、宇都宮のホテル山で大谷石の調達に奔走したのは(1920年)、他ならぬレーモンドと、東京事務所の日本人スタッフ内山隈三(うちやまくまぞう)だった。
レーモンド, アントニン(1970) 『自伝アントニン・レーモンド』, 三沢 浩 訳, 鹿島研究所出版会.
11. 林の辞任は、本連載の第一回で触れた旧館の全焼(1922年)に係る引責が直接的な要因だが、「ライト館」を巡る紛糾も大きく影響したと思しい。結果、ライトの帰国という事態を招き、以降、ライトが日本を訪れることも、「ライト館」を実見することもなかった。
12. 土木技術の鉄筋コンクリート造が建築分野に採用されたのは明治10年代だが、型枠の使用は明治30年代に入ってからだった。ところが必要な木材の物量・金額が嵩(かさ)み、これを解消する定尺(ていしゃく)パネルの登場は大正6年まで待たねばならない。一方、明治の洋風建築は煉瓦の組積造が主流を占め、その多くが大正12年の関東大震災で瓦解したことから、鉄筋コンクリート造への移行が加速化する。煉瓦生産は大正9年がピークで、大正半ばの状況は、木製または煉瓦の型枠、鉄筋コンクリート造の化粧煉瓦張り、鉄骨煉瓦造、その一部に鉄筋コンクリートを用いるなど、種々の工法が実践された。
13. 「ライト館」を始め、日本国内のライト建築の実現に粉骨砕身(ふんこつさいしん)した遠藤は、師の思想・造形を最もストレートなかたちで自身の糧とし、そのことは、遠藤の設計による「旧・甲子園ホテル」(竣工1930年)に見て取れる。本件では、石川県小松産の凝灰岩「日華石(にっかせき)」がふんだんに用いられ、支配人は林だった。


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