中心市街地における大谷石の町並み
宇都宮市の中心市街地では、敷地の奥にある石蔵や旧街道に残る町屋の外壁に、石の断片的な町並みを見ることができる。近年、所有者の世代交代や建て替えによりそれらは減少しているが、その一方で、市街地の空洞化により駐車場が増えたことで、新たに見えるようになった石蔵もある。こうしたまちなかの大谷石の建物については、2001年に栃木県建築士会が調査し300棟以上あることが把握されており、その後、2016年に宇都宮市都市計画課のもと、建築士会が再調査し、宇都宮大学安森研究室で分析した文1)。
宇都宮市中心市街地(図1)は、古くから日光街道と奥州街道が通る交通の要所であり、宇都宮二荒山神社の門前を中心に、江戸時代には宇都宮城の城下町として栄えた。明治期には市街地の外側に日本国有鉄道の宇都宮駅が作られ、昭和6年に東武宇都宮駅ができたことで、市街地の骨格が形成された。第二次世界大戦で空襲に遭い、多くの建物が焼失したが、大谷石の建物は戦火を免れ、現存しているものもある。
まず、田川近くで旧奥州街道に面する旧篠原家住宅(図2)は、醤油醸造を営んでいた商家である。街道に面する下屋のある見世蔵とその横に建つ袖蔵という形式には、関東の蔵の特徴が表れている。敷地奥には江戸期の蔵が建ち並び、それらの壁に大谷石が張られている。ここでは、街道と河川の近くで栄えた商業の営みが感じられ、国指定重要文化財建物となっている。
次に、現在の本郷町・清住町通りは、もとの日光街道にあたる。江戸時代の絵図(図3)を見ると、街道沿いに町屋が建ち並び、敷地の奥に濃い色の屋根が点在しており、これらが石蔵であると考えられる。貴重な家財を収納するまちなかの石蔵は、このように敷地の奥にあることが多い。この地区は、第二次世界大戦の戦火を免れ、旧街道の面影が残っているが、現在、都市計画道路(都心環状線の接続)と区画整理が進められており、街道沿いの町並みの継承が課題となっている。敷地奥の石蔵の中には、周囲が駐車場になったことで見えるようになったものもあり(図4)、近年の市街地の空洞化による新たな景観として捉えられる。
さらに、中心市街地を斜めに流れる釜川沿いでは、酒蔵や、味噌工場など、川沿いの産業の建物に大谷石が使われている。現在は暗渠となっているあさり川には、材木倉庫(図5)があり、大谷石の長い壁面が連続している。
町屋と工場、戦後のコンクリート造
このように市街地では、街道沿いの「町屋」などの江戸時代の商業や、現在も続く川沿いの「工場」などの産業に、大谷石の建物が用いられ、まちなかの生業に応じた用途をみることができる。
構法は、「張石」は、町屋の側壁に隣家からの延焼を防ぐために石を張ったものがみられる。「積石」は、全体に石を積む組積造の蔵は戦前までに作られたもので、戦後に建築基準法が成立すると、鉄筋コンクリート(RC)の臥梁(がりょう)や柱をもつ構造となり、その間に石を積んだ建物が作られるようになる。
また、建物の階数は、農村では平屋もみられるが、市街地ではほとんどが2階建てであり、狭小な敷地の市街地の状況が反映されている。
大谷石の建物の類型学(タイポロジー)
こうした市街地の町並みや生業を構成する建物に、共通する特徴をもつ類型(タイプ)が成立している(図6)。
比較的古い構法の張石造の建物では、「2階建て一部張石蔵」は、木造の蔵の1階に縦型目地で石を張り、2階は漆喰塗りとなっているもので、ほかの都市でもみられる漆喰蔵と宇都宮の張石蔵の中間的なものと言える。「2階建て一部張石町屋」は、街道沿いの町屋で隣家側が石の防火壁となっているもので、古くからのまちなかの営みの特徴を残している。
積石造の建物は、長年にわたり建てられてきた。「2階建て組積造蔵」は、農村集落と共通して多くみられる、最も一般的な石蔵の類型である。近年は、内部を改装して飲食店や店舗として活用するものもある。「2階建て木骨積石蔵」は、1階部分が積石で2階が木造のハイブリッドな構法である。
鉄筋コンクリートの臥梁や柱の間に大谷石を積んだものは、市街地に比較的多く、「2階建てRC積石」の蔵や、複数棟を連結した大規模な工場がみられる。建物の一部分に大谷石を積んだ住宅、看板付き店舗などの住宅や店舗併用住宅も、中心市街地に特有の類型である。
以上のように、宇都宮市中心市街地では、江戸期から昭和終戦後まで長期にわたり、様々な構法、用途、規模の多様な大谷石建物の類型が建てられ、まちなかの商業や産業の繁栄を担ってきたと考えられる。
参考文献
1)小林基澄,安森亮雄:宇都宮市中心市街地における大谷石建物の類型と断片的町並み,日本建築学会計画系論文集,第756号,pp.489-498, 2019.2