地域が誇る昭和戦前の大谷石名建築(1)/ 橋本 優子(宇都宮美術館専門学芸員)

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本連載の1・2回目で詳しく紹介したフランク・ロイド・ライトの「旧・帝国ホテル ライト館」 1)は、近代建築史のみならず、太古から今日に至る大谷石文化の歩みにおいて、重要な結節点となった。なぜならば、この石が生来的に備える土と木に近い物性、石と人々・社会との間に育まれてきた身近な関係性に近代の光を当て、さまざまな角度から鋭いメスを入れる大がかりな試みは、「ライト館」の造営事業が初めてだったからである。

結果、大谷石、及び日本各地に産する凝灰岩は、これまでにない類の石の建造物、都市景観、田園風景を生み、生活基盤の整備、産業振興に大きな貢献を果たした。そして、20世紀の世界・日本・地域に合致する「それぞれのモダニティ」の意識化を導いている。

ちなみに「ライトと大谷石」「ライト体験後の大谷石建造物」については、次の図式に則った分析が可能である。

A. 木+土(+紙)の在来建築(日本)=伝統的、洗練、日本の古典・様式美 など

(対抗しながら類縁を持つ)

B. ざらざらとした軟らかい石の実用建築(世界)=土着的、無名性、素朴 など

(対抗しながら類縁を持つ)

C. つややかな硬い石+重厚な煉瓦の歴史建築(西洋)=権威的、規範、西洋の古典・様式美 など

(対抗しながら類縁を持つ)

D. 鉄+ガラス+コンクリートの近代建築(世界)=合理的、先進性、普遍 など

注意せねばならないのは、上記の概念やキーワードが、ともすれば皮相的に理解されがちな点と言える。たとえば、大谷石の建築・土木・造形に漲る土着的(ヴァナキュラー)な感覚を、ライトが近代建築に取り込み、他に類例を見ない世界観が達成されると、次に「ライト館」に倣った類型が登場し、俗に「ライト式」と呼ばれる様式が広まっていく、という通り一遍の説明。ひいては、明治・大正・昭和戦前の無名(アノニマス)で素朴(ナイーフ)な軟らかい石の建造物をすべて、「ヴァナキュラー・モダンの諸相」と一括りにする論法にしばしば出くわす。

だが、「それぞれのモダニティ」は、そんな単純なものではない。少しずつ接点を持ち、別の次元にあるA・B・C・D相互の間には、きわめて複雑な力学が介在し、自然の摂理、科学技術や政治経済の趨勢と深い関わりを持っている。近代建築とて、昔ながらの習俗、変転する流行と無縁でいられない。

基本的にAは耐震性、Bは防火性で優れ、ヨーロッパの気候・風土ならばCの居住性は高い。一見、相反するAとB、BとCは、実は親和性がある。Cにまつわるしがらみ、不自由な暮らしから脱却するために、国際標準を目ざすDが確立されたものの、西洋近代の「住むための機械」 2)は、世界の天変地異、多様な地域文化に対して柔軟ではなかった。CやDによってAが否定されると、日本人の心身は危機に瀕したが、BとDだけではなく、AとDの驚くべき調和で救われ、さらにはA・B・D、B・C・Dの三者和合さえ起こって、「それぞれの新しい豊かさ」が徐々に現実のものになった。

ライトの真の偉業は、こうした気づきの示唆にある。それを受け止め、さまざまな立場で協力・批判・消化・追求に勤しむ人々が去来した状況は、世界・日本・地域の近代建築と、大谷石にとって、まことに幸せだった、として良いだろう。

事実、この石の産地にして集散・消費拠点の宇都宮では、「旧・宇都宮商工会議所」 3)「旧・大谷公会堂」 4)「カトリック松が峰教会聖堂」 5)「日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会礼拝堂」 6)「南宇都宮駅 駅舎」 7)――地域が誇る昭和戦前の大谷石名建築が、「ライト館」の竣工から10年以内に具現化された。いずれも、ライト体験後の陳腐な類型、ライト式の突然変異や転化、単なるヴァナキュラー・モダンには該当せず、異なる条件と制約に照らして、関係者が自覚的な気づきに至り、最適な建築言語で綴った「ライト影響下の独自な傑作」にほかならない。

1928(昭和3)年に竣工の「旧・宇都宮商工会議所」は、石の街の中心部に立地し、当時の市庁舎に隣接する公共的な用途の建物として、事務室や会議室のほか、公会堂の機能を備えることが前提にあった。というのも、前身の「旭日館」 8)は、宇都宮商業談話会の呼びかけにより、地元有志から資金を募って建てられた宇都宮初の近代的な集会施設で、そのお披露目となる1893(明治26)年には、商業談話会も商業会議所に生まれ変わり、本拠を館内に置いたからだ。

会議所の創立30周年を目前に控えた1922(大正11)年、手狭になった「ホール付きオフィス・ビル」こと「旭日館」の一新が決議される。興味深いのは、二代目の新築に係る「人と石の抜擢」である。

設計者については、翌年に来宇して栃木県技師を務め、宇都宮工業学校校長も兼ねながら、地域の建築業界に関わり始めたばかりの安(やす) 美賀(みよし) 9)に白羽の矢が立つ。ところが当初は会議所に対して、「公職にあること」を理由に、すぐさま首を縦に振らなかった。ただし、青森県で技術系教育者のキャリアを歩み、その関係で手がけた案件が、端正で骨太な公共・商業建築――先に示した図式では実用志向のCだったこと、安の立場や人柄に鑑みて、むしろ順当な選出と考えられる。

一方、大谷石の採用は、「ライト館」の工事、関東大震災、東京・横浜の震災復興、すなわち1919(大正8)年から1930年代初め(昭和初期)に及ぶ時局を、石の里・石の街が当事者として目の当たりにし、主体的に下した当然の判断だった。「旭日館」に取って代わる新築事業も遅れるが、初代と同様、施主・他の出資者・市民の援助とともに、今度は、「石を積極的に利用するべし」の声(陳情)を受けて、1926(大正15)年、安は「ライト館」の実見に出向く。その二年後、「鉄筋コンクリート造+鉄骨造2階建て、3階建ての南北塔屋付き、陸屋根。大谷石+白河石+花崗岩+簾煉瓦+ブロンズ張り、人造石洗い出し仕上げ」という凄まじい仕様の商工会議所が出現した 10)。

当市の場合、明治維新に伴う動乱でAを完全に失う。1884(明治17)年から県庁、明くる年に開業の幹線鉄道駅を擁しながら、本件が進行する年代になっても、CやDの成熟が見られない。その反面、Bはそこかしこに横溢していた、という固有な事情があることに留意されたい。よって、人々の陳情と、安の実践、要するに「地域の気づき」は、決して遅きに失した徒花ではなく、機が熟して適切な実り、つまり「石の街らしい独自のなモダニティ」をもたらした、と評すことができる。

この建物は、ディテールを一瞥するだけでも、正面車寄せにドーリア式の大谷石円柱、大谷石の芯材と花崗岩の隅材を組み合わせ、ギリシャ雷文の白河石柱頭を巻いた角柱が並ぶなど、ひたすら度肝を抜かれる。ファサードの頂部と、屋上の西北・西南両角には、紛れもなく「ライト館」の玄関装飾にヒントを得たと思しい大谷石球体が鎮座する。これらは、ほんの片鱗に過ぎない。

しかし、だからと言って、素朴と歴史の折衷とも羅列とも言いがたい風貌に眼が奪われ、前述のごとく「概念・キーワードの拾い読みで浅薄に語る」と、大きな誤解を呼ぶ。

安は、「ライト館」の見学に際して、やはり震災に耐えた「東京駅丸の内駅舎」 11)や、復興後の「一丁紐育」ことアメリカ式ビルディングが建ち並ぶ丸の内界隈を素通りするはずもなく、思うところが大きかったに違いない。自身も学んだ西洋の古典は、ひときわ遠い存在でありながら、教鞭を執る者として、常に拠所にしてきたと想像される。人々の期待に応え、ホール付きオフィス・ビル、いやオフィス付き公共ホールの観点で、天井高があり、柱が少ない公会堂を2階に置き、陸屋根を支えるために、青森時代から得意とした鉄筋コンクリート造に鉄骨造を併用したのは、いかにも実直な技師らしい。そして、関東・東北に産し、近世以前から地産地消されてきた凝灰岩(大谷石)、安山岩(白河石)、花崗岩(安の出身地である茨城県のほか、岩手県・宮城県・福島県は銘石の宝庫)を抵抗なく散りばめた。

「旧・宇都宮商工会議所」は、昭和初期の宇都宮だからこそ求められ、生を受けた意義は大きく、B・C・Dの三者和合による類稀な大谷石建造物である。


図1 旧・宇都宮商工会議所 東側外観
設計=安 美賀|竣工1928年
撮影=1970年代末、藤原宏史


図2 旧・宇都宮商工会議所 150分の1模型
東・南立面
設計=安 美賀|竣工1928年
制作・撮影=2016年、模型工房「さいとう」


図3 旧・宇都宮商工会議所
南西角上部 屋上の装飾
設計=安 美賀|竣工1928年
撮影=1970年代末、藤原宏史


図4 旧・宇都宮商工会議所 遺構
(栃木県中央公園) 正面車寄せの柱
設計=安 美賀|竣工1928年、解体1979年、
一部移築・復元1985年|2016年、筆者撮影

(注)
1. 竣工1923年、解体1967-68年、一部移築・復元1985年。設計:フランク・ロイド・ライト。煉瓦型枠鉄筋コンクリート造、大谷石+簾煉瓦+素焼き・施釉タイル+テキスタイル・ブロック(コンクリート製化粧板)張り。所在地:東京都千代田区→愛知県犬山市(一部移築・復元後)。
2. ル・コルビュジエの言葉「家は住むための機械である。」(Une maison est une machine à habiter.)
Le Corbusier. (1923) Vers une architecture. Paris: Éditions Crès.
3. 竣工1928年、解体1979年、一部移築・復元1985年。所在地:栃木県宇都宮市中央本町→睦町(一部移築・復元後)。(構造などは本文参照)
4. 竣工1929年。設計:更田時蔵。大谷石組積造+一部木造。所在地:栃木県宇都宮市大谷町。
5. 竣工1932年。設計:東武鉄道。木造、大谷石張り、漆喰仕上げ。所在地:栃木県宇都宮市吉野。
6. 竣工1932年。設計:マックス・ヒンデル。鉄筋コンクリート造+一部木造、大谷石張り。所在地:栃木県宇都宮市松が峰。
7. 竣工1933年。設計:上林敬吉。鉄筋コンクリート造+一部木造、大谷石張り。所在地:栃木県宇都宮市桜。
8. 当時の所在地名が宇都宮町旭日台だったことから、「旭日館」と名づけられる。ちなみに町役場(竣工1889年)は、現在の宇都宮商工会議所(栃木県産業会館)付近にあり、1896年の市制施行に伴い初代市庁舎に転用され、1910年まで実働、1912年には「旭日館」の隣に2代目市庁舎が完成した(1945年の宇都宮空襲で焼失)。これらは、いずれも木造2階建ての洋風建築である。
9. 1885年、茨城県那珂郡中野村(現・ひたちなか市)に生まれる。小学校訓導(教員)を経て、1908年、東京高等工業学校附設工業教員養成所(現・東京工業大学附属科学技術高等学校)に入学。1912年、同校を卒業し、青森県立工業学校(現・青森県立弘前工業高等学校)教諭となる。1920年、同校校長に就任。1923年、青森時代の最終作で、東北初の鉄筋コンクリート造3階建て百貨店「旧・かくは宮川呉服店 新店舗」が竣工。同年、栃木県内務部土木課に招聘され、栃木県立宇都宮工業学校(現・栃木県立宇都宮工業高等学校)校長を兼務する。1935年、宇都宮時代の第二の代表作「旧・栃木県教育会館」が竣工。1942年、栃木県立足利工業学校(現・栃木県立足利工業高等学校)校長に転任。1946年、同校を退職し、東鉄工業千葉支社建築課に勤務する。1953年、千葉で逝去。
10. この時、会議所も「宇都宮商工会議所」と改称した。
11. 竣工1914年。設計:辰野金吾。鉄骨煉瓦造。所在地:東京都千代田区丸の内。


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