大谷石採掘が生業として発展、大谷石の構造物が広く普及するのは、江戸時代になってからであり、最も多く用いられたのは蔵である。宇都宮市周辺地域における蔵の変遷は、大雑把にいえば板蔵から大谷石蔵である。板倉は太い木材を柱や梁として用い、柱と柱との間の壁は板材を用い、屋根は茅葺ないしは板葺きである。ところが板倉は、すこぶる火災に弱い。そこで、宇都宮市近辺では、防火性の高い大谷石蔵が建てられるようになったのである。
当初の大谷石蔵は、既存の板倉の壁の上に大谷石を貼ったもので、いわゆる貼り石工法である(屋根にも大谷石瓦を用いた『石屋根』が防火性では最適とされた)。板蔵の構造は3尺ごとに柱を立て、その柱と柱との間に板を通したもので、大谷石の規格は、板蔵の柱間の長さの3尺(約90cm)が基準とされ、幅は1尺(約30cm)、厚さは手掘りで採掘できる限界の3寸(約9cm)とされた。なお、石の厚さが3寸(約9cm)とされたのは、1度により多くの石を運ぶための馬の背による運搬効率が重視されたことによる。ちなみに3寸(約9cm)の厚さであると1頭の馬で運べる大谷石の本数は4本で、これが5寸(約15cm)の厚さになると半分の2本となってしまう。ところで3寸(約9cm)の厚さの石では、薄すぎて積み上げることが出来ず、板蔵の外壁として貼るしかなかった。しかし防火的には、これで十分だったのである。
このように大谷石の馬の背運搬と貼り石工法とは密接に関わっていたのである。馬の背による1日の運搬の範囲は、片道4里(約16km)から5里(約20km)の範囲であり、そうしたことから貼り石工法による石蔵は、大谷を中心に宇都宮市域に集中したのである。
なお、貼り石工法は、板に添えた大谷石の落下を防ぐために特製の鉄くぎで押さえたものであり、貼り合わせた石と石との間には多少の隙間が出来、釘の頭が見える。そこで隙間を埋め、かつ釘の頭を隠すために漆喰で覆ったのである。
写真1 貼り石工法による石屋根の石蔵。漆喰の目地が剥がれ釘の頭が見える。明治初期建築(推定)宇都宮市西根。
写真2 積石工法による。左:座敷蔵明治41年・右:穀蔵同45年建築。宇都宮市大谷町屏風岩石材。
明治期になると大谷石の運搬が発展し、それとともに大谷石の利用目的が広がり、利用範囲も飛躍に拡大した。まず、明治初期に馬車が使われるようになり、従来、大谷石運搬の主役だった馬の背に比べ運搬力が約15倍にも高まった。それまでは厚さ3寸(約9cm)の石が基準であったものが、厚さ5寸(約15cm)のものでも一度に約30本が運搬できるようになった。その上、厚さ3寸(約9cm)の場合は貼り石工法によったが、5寸(約15cm)の場合は石を積み重ねることが出来、積石工法が可能になったのである。次いで明治30年(1897)には大谷荒針と宇都宮材木町間に人車軌道が開業し、材木町でいったん馬車に積み替え、東北本線宇都宮駅へと運ばれた。大谷石の鉄道運搬の時代の幕開けとなったのである。その後、明治36年(1903)には、人車軌道が材木町から日光線鶴田駅へ延長された。さらに、大正4年(1915)には荒針・鶴田間に石材輸送専用の軽便鉄道が開通した。この軽便鉄道は、軌道の幅が、東北線等の鉄道と同じ幅の2フイート(61cm)であり、途中で大谷石を積み替えることなく鉄道に直結し、それとともに大谷石の大量運搬が可能になり、利用の範囲も栃木県内から首都圏、さらには関西方面にも移出され飛躍的に広がったのである。
このように明治後期以降の大谷石運搬の発展と積石工法の確率は、従前にも増して大谷石の利用を拡大したが、建物の種類から言えば依然として蔵・倉庫の類が多かった。大谷石の防火性、および保温・保湿性が改めて高く認識されたからに他ならない。栃木県内に限って言えば、農家の米蔵のみならず、大正期以降は肥料倉庫や米蔵を始め各種倉庫が建造された。それとともに耐震性が求められ、側壁に控え壁(バットレス)を配したものや昭和20年代以降はコンクリート柱枠を支えにした倉庫が作られるようになった。中でも各地の鉄道の駅近くには、こうした大谷石倉庫群が目立つ。大谷石倉庫建築が最盛期に達した時期でもある。
写真3 バットレスのある石蔵。昭和14年建築。那須烏山市。那須通運石造り倉庫群の一つ。
写真4 コンクリート枠に支えられた石蔵。昭和28年建築。宇都宮市吉野町。当初米の貯蔵庫として建築。