石屋根に魅せられた民藝運動家 / 柏村 祐司(栃木県立博物館名誉学芸員)

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天明8年(1788)に幕府の巡検使に同行した古川古松軒は『東遊雑記』の中で、宇都宮について「町家草葺き多くてあしし、この辺は石の和らかなるありて、それを瓦の如く削りなして、堂塔の屋根に葺くなり、他国にはなき石なり」と記している。その当時、宇都宮の街中には、旅人が目に付くほど石屋根があったようだ。

ここで注目しなければならないのは、石屋根は堂塔に見られたということである。もっとも宇都宮市内に塔は無かったから、山門の間違いと思われるが、とまれお寺の建物に石屋根が多かったようである。ちなみに安永7年(1778)に建立された慈光寺山門、享保19年(1734)建立の延命院地蔵堂・および山門、桂林寺旧山門(建築年不明)などが石屋根であったことは広く知られている。

お寺の建物に石屋根が用いられたのは、貴重な建物を防火性の高い石屋根で守るといったことや、大谷石の持つ清楚な美しさ、石でありながら温かみを持つ感触等がお寺の建物に相応しいとされたからであろう。

いわゆる「石屋根」にぞっこん惚れ込んだ者がいる。民藝運動の創始者である柳宗悦である。柳は濱田庄司、河井寛次郎などとともに民藝運動を広めた中心的人物である。柳は濱田の住む益子や鹿沼、日光を度々訪れた。その度に大谷石屋根の民家に心を惹かれという。柳は日本民藝協会の機関誌『工藝』第65号の中で「長屋門の美しさもその一つだが、私にはことのほかその地方の民家で用いる石屋根が美しく想えた。これだけ形が確かで、しかも美しい屋根を見たことがない」と石屋根を絶賛している。

柳は石屋根の構造、分布、建築の歴史等を詳しく知りたいと思った。ところが、逢うどの建築家にたずねても皆知らないという。これほど特徴のはっきりした日本の屋根は無いはずであるが、どの建築史家も語ったことが無いのはむしろ不思議に思えたともいう。そこで柳は建築には素人ではあるが自分たちで調査し、石屋根のことを広く紹介しようと思ったのである。そのためには調査が必要である。かと言って、柳自身が調査する時間的余裕はなかった。濱田庄司に、調査を引き受けてくれる者を探してほしいと依頼したのである。白羽の矢が立ったのが塚田泰三郎であった。

塚田は、調査を依頼された昭和10年(1935)当時38歳、気鋭の小学校教師であった。彼は民藝に興味関心が深く、益子に濱田庄司の存在を知ると、益子まで出かけて濱田庄司に師事した。 民藝運動に関わったほか、和時計の研究者として知られる。一方、彼は版画家川上澄生と親しく、川上版画のコレクターでもあり、晩年は栃木県立美術館長にもなっている。

謹厳実直な塚田は、柳の期待に見事に応えた。その結果は前述の『工藝』において「石屋根の家」として詳しく紹介している。この中で塚田は、石屋根の歴史、石屋根に用いられる石材、その石材の採掘方法、屋根石の種類と大きさ、屋根下地の構造、屋根石の葺き方、屋根石の運搬、石屋根の分布等について述べている。例えば、石屋根に用いる石瓦には、下石と上石との二種類がありこれを交互に重ねて葺く。この1枚の石瓦は、幅約1尺1寸(33cm)、長さ3尺(90cm)、厚さ3寸(9cm)、重さ約7貫目(26.25kg)ある。従って3間(5.4m)に6間(10.8m)の建物としても棟石等を加えると、2千貫(7,500kg)位の重量物となるという。そのため石屋根にするには、普通の建物よりも部材を太く、建物全体の構造も十分でなければならないとの調査結果を明らかにした。また、「石屋根を作ると身代が傾く」との俗諺(ぞくげん)を聞き、石屋根の建築には大変な財力を必要とされたのであるとも述べている。このように塚田のおかげで石屋根の実態が明らかにされた。

石屋根にぞっこん惚れ込んだ柳は、ついには石屋根の長屋門を買い求め自宅にしてしまう程であった。宇都宮市野沢の日光街道沿い中山歌三郎氏宅の長屋門が売りに出されていたのを濱田や塚田の仲立ちを得て手に入れたのである。昭和9年(1934)、石屋根の長屋門は東京駒場に移築された。現在の日本民藝館附属館がそれである。また、昭和11年(1936)、自邸の向かい側に日本民藝館本館を建設した際には、大谷石を床石などにふんだんに取り入れた。

大谷石建築といえば旧帝国ホテル設計者のフランク・ロイド・ライトばかりが注目されるが、柳は日本広しといえども石屋根が大谷を中心に半径20kmくらいの範囲に数多く石屋根が分布することをつきとめ、この石屋根こそは、栃木県を代表する独特な建築物であると説いた。

柳によって高く評価された石屋根は、江戸時代から明治時代中頃にかけて建造されたものが多い。しかし、雨風等で風化しやすい石屋根が昨今次々と瓦に葺き替えられつつある。そういえば塚田多三郎は、「石屋根百年」の俗諺も耳にしている。石屋根の見た目は堅牢(けんろう)そうでも、近隣の石屋根が雨漏りすることなどから建造後100年くらいしか持たないことを石屋根所蔵者は経験として知っていたのである。柳宗悦が移築した日本民藝館の長屋門は、移築後2回屋根を葺き替えている。日本民藝館の長屋門もそうであるが、宇都宮市名に残る石屋根の蔵の保存も考えなければいけない。


写真1 石屋根を覆った屋根、鹿沼市


写真2 石屋根長屋門、宇都宮市鶴田町(瓦屋根に変えられた)


写真3 大谷寺山門


写真4 日本民藝館長屋門


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