大谷石の運送に果たした人車軌道と軽便鉄道 / 柏村 祐司(栃木県立博物館名誉学芸員)

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大谷石の運送が馬背や馬車が主流であった時代、大谷石はまだ地方の石に過ぎなかった。例えば、馬の背による運送では、1枚の大きさが幅1尺(約30cm)、長さ3尺(約90cm)、厚さ3寸(約9cm)の石の場合で、東は鬼怒川を越えて運ばれ使用されることはあまりなかった。それが飛躍的に使用範囲を拡大し、大谷石建造物の普及を促したのは人車軌道とその後に開通した軽便鉄道である。

第一段階は、人車軌道である。軌道の上に車輪をつけた台車に大谷石を載せ、人間が押して運ぶというものである。俗にいうトロッコである。

人車軌道が設立されたのは、明治29年(1896)3月19日であり、運営会社名を「宇都宮軌道運輸株式会社」という。資本金は2万円、株式総数1千株、開業は明治30年(1897)2月10日、本店は宇都宮市中河原町におかれ、営業所は宇都宮市西原大運寺西、現在の裁判所前である。設立者は初代社長の材木商篠崎安平など50名である。軌道敷設の目的は、もちろん大谷石の運送であるが、他に大谷への観光客の誘致があった。

大谷は当時、陸の松島とか関東の耶馬溪(やばけい)などと称されるほどの景勝地として知られるとともに、宇都宮の奥座敷といわれ、鯉料理などで知られる料理店があり、市内の旦那衆がよく訪れる所でもあった。設立者の多くが市内の実業家であったということは大谷石の運送のみならず、大谷を更なる観光地として開発する目論見があったからである。大谷石文化が日本遺産に登録されたのを機に、大谷の観光開発が叫ばれているが、今に始まったことではない。

路線は、当初西原から荒針間の6.3kmで、その後に材木町に延長された。荒針から人車軌道で運ばれた大谷石は、西原および材木町駅でいったん馬車に積み替え、東北線宇都宮駅に運ばれ、ここから本格的な鉄道で全国に運ばれたのである。ところで、路線が宇都宮駅までとならなかったのは、市街地の交通事情と池上の急坂が人車軌道にとって支障をきたしたものと思われる。明治36年(1903)、日光線鶴田駅の開業を機に路線は鶴田駅まで延長され、荒針・材木町・鶴田駅が結ばれた。

車輌は、貨車と客車の2種類で貨車は1台1トン積み、長さ3尺、幅1尺、厚さ5寸(約15㎝)の石24本を運ぶことができ、全部で50両、客車は1台6人乗りで全部で20両、車夫は貨車・客車ともに1台2名である。最も多い時は1日あたり約300人もの利用者があったという。

昭和50年頃、古老より昭和初期頃の人車軌道の様子を聞いたことがある。車夫は貨車を2人で押すが、勢いがつくと後部にある踏み台に飛び乗り、時折ラッパを鳴らしながら走ったという。仕事が終わると車夫は、空いた貨車に弁当や水をいれる1升びんなどを載せて悠々と押して帰った。車夫はいずれも頑健で、1日に1升の飯を食べ、1升の酒を飲むといわれたともいう。一方、客車の場合、運賃は3銭から5銭くらい(当時饅頭1個1銭)で、材木町の駅待合室には運賃の料金表が掲示されていたという。ともあれ人力車では1人しか乗れないところ客車ならば6人が1度に乗れ、その上にスピードも速く乗り心地も良いということで喜ばれたという。

明治39年(1906)2月、宇都宮軌道運輸株式会社は、仁良塚から戸祭まであった野州人車鉄道を買収して新路線とし、それを機に社名を宇都宮石材軌道株式会社と改めた。

大谷石運送鉄路の第二段階は、軽便鉄道である。人車軌道では輸送量が限界に達したので軽便鉄道を敷設したのである。会社名は「宇都宮石材軌道株式会社」で、鶴田・荒針に石材輸送専用の軽便鉄道が敷設された。開通は大正4年(1915)7月である。軽便鉄道とは、本来、軌道の幅が本格的な鉄道よりも狭く、機関車も小型のものである。ところが石材軌道の幅は、軽便鉄道でありながら鉄道院と同じ幅であった。これにより鉄道院の線路に積み替え無しで接続され、大谷から全国各地への駅に直結されたのである。なお、この頃産出量の7割が東京・横浜に出荷されたといわれる。

所有機関車・車輌は、大正8年営業報告によれば、機関車1両、貨車12両である。

昭和4年(1929)には、荒針・立岩間に路線が延長された。軽便鉄道の発展に伴い、人車軌道の大谷・材木町・鶴田の区間の運搬量は減少したが、反面、各石山の間まで細かく人車軌道路線が延長され、各石山と荒針駅、立岩駅を通じ軽便鉄道と直結された。かくして大谷石の運送は、鉄路を通じて全国各地に販路を広げたのである。

こうして発展してきた人車軌道・軽便鉄道だが、陰りが見えてきた。初めは客車の問題で、自動車の普及で人車軌道利用者が減少した。そこで客車を人車に変えてガソリンカーとし、自動車に対抗しようとしたのである。昭和6年(1931)、宇都宮石材軌道株式会社は、東武宇都宮線開通を機に東武鉄道に買収され、それを機に人車軌道は廃止された。残ったのは、軽便鉄道だけで、路線も東武鉄道移管後は、鶴田から東武西川田駅に付け替えられた。その軽便鉄道も昭和39年(1964)に廃止され、ここに大谷石の運送の発展に多大な役割を果たした人車軌道・軽便鉄道が全て姿を消したのである。


各石山まで敷かれた軌道


人車軌道客車 現西一の沢付近(大町雅美「郷愁の野州鉄道」随想舎より)


荒針付近の人車軌道貨車(大町雅美「郷愁の野州鉄道」随想舎より)


大正初期の荒針駅・軽便鉄道(大町雅美「郷愁の野州鉄道」随想舎より)


大谷石輸送に関する鉄道・軌道網模式図(昭和6・7年頃)(「石のまち大谷の文化的景観保存計画報告書」宇都宮市より)


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