近世の岩原村は、先の「大谷石と江戸時代の石切の暮らし」の記事でも触れた通り、石切が住み、大谷石が採掘された村でした。まず、図1の墓石を見てください。大谷石造りの墓石です。大谷地区のみならず、宇都宮市域では大谷石造りの墓石は一般的なものです。また、この屋敷型の墓石も、当該地域には複数確認できます。このタイプの墓石は、全国に点在し、四十九院の意匠をともなうことが多いと指摘されています(1) 。四十九院とは、弥勒菩薩のいる兜率天の内院にある49の宮殿のことです。
近世社会は、士農工商という言葉で説明されるように、身分制社会でした。村落の場合、その構成員は基本的には百姓身分でしたが、百姓身分内も平等な関係ではなく、家格と呼ばれる格差が存在しました。宇都宮市域の近世村落でも、祭礼時の座席や葬法、戒名などで家格の差があったことが指摘されています (2)。
岩原村では、遺体の入った棺桶を一時的に置いておく殯(もがり)の時の棺台(かんだい)に、家格を確認できます。本稿では、この慣例の変化について紹介したいと思います。
安永3年(1774)における当村の家数は37軒で、その内訳は本百姓22軒、分ヶ地水呑12軒、前地2軒、寺1軒でした(3) 。さらに本百姓は庄屋家、頭百姓、平百姓に分かれていたようです。庄屋は、世襲で高橋家が代々世襲していました。庄屋は税金面などで特権を有していました。頭百姓は村役人の一つである組頭に就任することができる家柄でした。組頭は「高懸り料」四斗ずつが村から支給されるなどの特権がありました(4) 。このように本百姓の中でも、家格が存在しました。
分ヶ地水呑は本家より百姓株を分けてもらい独立した家のようです。本家に比べ経済的に貧しくなりがちですが、当村では石切という農耕以外の収入源がありました。そのため、大谷石産地の村では零細な村人でも、村外へ出稼ぎに行かずとも生活できたと言われています (5)。前地は、本百姓に付随していた従属農民です(6) 。
さて、以上を前提に、殯における家格の差について見ていきましょう。安永4年、領主に対して村内の慣例を書き留めた郷例の書上帳が作成されています(7) 。これによると、庄屋家のみ「棺台之儀、四十九輪四方鳥居附来申候」と記されています。棺台とあるので、殯時のものと思われます。「四十九輪」は「四十九院」のことと理解でき、「四方」に付けるとあるので、四十九院塔婆と推測されます (8)。この慣例は、「(宇都宮弥三郎の)臣之時分ゟ永々右之廉仕来申候」、すなわち庄屋家が宇都宮弥三郎(忠綱か)に仕えていた頃からであるとも記されています。一方、頭百姓にはこの塔婆が許されておらず、山道を付けるのみでした。平百姓に至っては、棺台は使えないようで、吊るし棺での葬送となっています。
本史料の記述が正しければ、中世の段階には、庄屋家は棺台に四十九院塔婆を使用していたことが判明します。また、近世中期において、この塔婆は村人一般が使用できるものではなく、庄屋家のみ特権的に許されていたのです。なお、郷例はあくまで22軒の本百姓間のもので、本百姓より家格の低い分ケ地水呑や前地に関しては記載の対象になっていません。
安政2年(1855)、岩原村では村内で対立が起こったようで、解決の際に村の規定が作られました(9) 。この規定には、葬送に関する事項も確認できます。すなわち、これまで庄屋家にのみ許された、棺台への「四拾九輪四方鳥居」が組頭・頭百姓にも許されているのです。また、平百姓の棺台も「棺台ふち一寸限り」とされています。
この事例は、一見、家格が時代とともに崩れたと読み取れるのですが、そう単純ではありません。安政5年に再び郷例の書上帳が作成され、代官所へ提出されています (10)。ここに記された棺台の郷例は、安永年間のものと同じで、安政2年の規定と矛盾しています。なぜでしょうか?
安政5年の書上帳は1冊は領主に提出されたと思われますが、村側にも1冊保存されています。村に残されたものには、頭百姓と平百姓の葬送に関する箇条の下に、下げ札がつけられています。この接着部には、6人の押印を確認できます。印文はかすれ、誰のものか確定できませんが、少なくとも複数の者が合意の上で貼り付けられた下げ札ということがわかります。その一部の読み下し文と意訳を紹介します。
頭百姓・並百姓棺台の儀、安政二卯年六月中それぞれ勘弁を以って棺台あい直し候通り、以後相互に申分無く仕るべく候
(訳)
頭百姓と並百姓(平百姓)の棺台は、安政2年6月に取り決めをしたので、今後は互いに不満はない。
つまり、安政2年の規定は生きており、現実には家格による棺台の規定が崩れています。しかし、領主に対しては、近世中期以来の郷例を提出しており、頭百姓の四十九院卒塔婆は許されていないことになっているのです。このように、家格の差の変更はいくつものレベルがありました。また、平百姓以下には内々にも四十九院塔婆は許されておらず、一度確定した慣例を崩すことは、非常に困難なことだったのです (11)。
図1 長林寺の境内墓地をはじめ、大谷石の産地を中心とした地域一帯に、大谷石で造られた屋根付の廟墓が見られる。中には、石塔婆が対になって納められていることが多く、戒名が刻まれている場合には、男女であることが分かることから、夫婦墓として理解できる。さらに、当地の近隣の墓石の記載には、逆修の文字が刻まれたものがあり、生前に逆修墓として建立する風習があったものかもしれない。写真の髙橋家墓所に見られる廟墓は、前面向かって右に「寛延元」と彫られており、1748年に建立されたものであろう。(2021年3月19日撮影)
図2 岩原地区の庄屋と社寺及び大谷石産地の分布
(大谷石産地は現在も採掘が行われている1カ所を含む昭和期の産地の分布概要を示す)
図3 五峯山長林寺の山門屋根は大谷石瓦で葺かれている。境内においても石張の参道、石段、石壁など、大谷石がふんだんに用いられている。(2021年3月19日撮影)
図4 長林寺の境内墓地の一角には、敷石、はめ石、根石、階段、石塔、灯籠、卒塔婆、地蔵、五輪塔などがすべて大谷石によって造られた、髙橋家墓所を見ることができる。 (2021年3月19日撮影)
注
(1)水谷類『廟墓ラントウと現世浄土の思想』(雄山閣、2009年)。
(2)『宇都宮市史』近世通史編。
(3)安永三年「岩原村差出し帳」『宇都宮市史』近世史料編Ⅰ。
(4)栃木県立文書館寄託・高橋悦郎家文書3(以下、本史料群は「高橋家」と略して記載する)。
(5)『宇都宮市史』近世通史編。
(6)「前地」『国史大辞典』。
(7)前掲高橋家3。
(8)四十九院塔婆とは、墓所の周りを囲む、四十九院の名を記した塔婆のことです。また、殯の忌垣にも使用されました(奥村隆彦『葬墓民俗用語集』アットワークス、2014年)。
(9)安政2年「村規定之事」(『宇都宮市史』近世史料編Ⅰ)。
(10)高橋家22。
(11)本稿は令和3年度に発表予定の拙稿の一部を改変したものです。