本連載の五回目では、大谷石による地域の近代建築のうち、「西洋中世」を踏まえた二つのキリスト教施設を正しく理解するために、教会建築の「理念」と「様式」に焦点を当て、歴史の「復元」「復興」「転生」に関する分析を行った。そのなかで「日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会礼拝堂」は、ゴシック・リヴァイヴァルの「多様な転生」と位置づけたが、今回は改めて、この礼拝堂の建造物としての考察に立ち戻る。
まず建築構造は、鉄筋コンクリート造・大谷石張りの平屋建てに、三階建ての塔屋が付く。次に平面構成は単純で、基本的には内部が複雑に分節されない単一の長方形プランから成り、四方に壁を立ち上げ、南西・北東方向に長い平らな直方体とし、銅板葺きの切妻屋根を掛けている。屋根を支える小屋組は木造で、屋根裏が堂内に露出する。
内部の壁は白い漆喰で大谷石を覆い、内陣に設けた祭壇、リアドス(祭壇の後ろの壁)、説教壇と聖書台、身廊の会衆席、礼拝堂全体の床など、華美な装飾を排し、木の質感を活かした清楚なインテリアとの調和が美しい。
建物の長手方向に並ぶ細長い矩形の窓にはステンドグラスを嵌めるものの、信仰に関わる図像や場面の直截な表現はなく、また、ゴシックの大聖堂を彩った壮麗なバラ窓とも相違する。おだやかな尖塔アーチ、十字形、斜め格子のモティーフを組み合わせたパターンを呈し、インテリアと同様、あくまでも楚々とした趣である。窓枠についても、堂内は漆喰を塗り込め、外部は石をあるがままに組んで、やはり慎ましやかな印象を与える。外壁の石づかいは言うまでもない。
このような石(張り)の「白い箱」の南西の端に内陣、中央部は身廊、北東側には唯一完全な独立空間で、別個の屋根を擁する小礼拝堂(1)を置く。全体の造りが簡素でありながら、必ずしもシンメトリー(左右対称)ではなく、端部の正面性が必要以上に強調されていないところが特徴となっている。
具体的には、南東面の北寄りに礼拝堂から張り出すかたちで角柱状の単塔を建て、身廊の窓と平行な開口部が玄関を成す。人々はここから入り、まず正面の壁に備えた洗礼盤(2)を眼にし、それから左へ進んで席に着き、身近な距離の説教壇(左手前)・祭壇(中央奥)・聖書台(右手前)(3)と対峙する。一方、北西面の南寄りには平屋建ての突出部があり、内陣・身廊と一体的だが、屋根の収まりや窓の形状が他とは異なる。会衆席から見ると、聖書台の右手にくぼんだ小空間で、オルガンを据え、扉の向こう(祭壇右)は聖具室となっている。
つまり「聖ヨハネ」は、厳格なシンメトリー構成と、立体的なダイナミズムで玄関(俗)から反対側の端部(聖)、ひいては天(至聖)へと収斂する造り、すなわちエレサレムの方向を意識した建物の配置、双塔がそびえ建つ正面、左右に側廊を持つ身廊(俗)と内陣(聖)の明確な分節、あらゆるディテールの総集により、この骨格を険峻に昂揚させる、という「宗教改革が起こる前の大聖堂」(4)とは相容れない。
単に建物の規模が小さいからではなく、「近代的な聖公会の礼拝堂」としての規範に則るからこそ、「ローマン・カトリック教会の荘厳な中世」「その復元」とは世界観が大いに隔たる。ゴシックそのものではなく、ゴシック・リヴァイヴァル、いやむしろリヴァイヴァルの多様な展開から転生したことについては、前稿で詳しく記した通りである(5)。
「石の箱」を飾り気のない手法で崩すアシンメトリー(左右非対称性)、組積造の武骨な壁に対する志向、これらに合致する仕上げとインテリアは、聖俗を問わず、幅広いゴシック・リヴァイヴァルの建造物に共通の特色と言える。「復興」の初期段階で「廃墟」に関心が向けられ、アーツ・アンド・クラフツ運動を介して「転生」が進んだ際に、古典の端正、バロックやロココの異形と技巧、歴史主義の混淆を退け、ある意味では天真爛漫な理想の追求だったとは言え、中世の「質朴な実用」が貴ばれたからだ。
完成度の高い(手)仕事、素材・風土に寄り添う態度、空間・インテリア・道具の質的な向上を標榜したアーツ・アンド・クラフツ運動は、結果的に20世紀の建築・デザインが立脚する「普遍的な機能性」を導き、近代の眼差しで「個別的な土着性」を拓く契機も作った。この文脈における「聖ヨハネ」は、「ライト館」「旧・宇都宮商工会議所」(6)と同じく後者に分類される。また、他のミッション建築と並び、新しい時代の聖なる「白い箱」(簡素な会堂)として登場した。そして、鉄、コンクリート、ガラスから成り、急進的な俗世に供する「白い箱」(ホワイト・キューブ)、つまり前者の二律背反とも評せる。
ついてはここで、竣工が「商工会議所」より一年遅く、「聖ヨハネ」に四年先行する「旧・大谷公会堂」(7)を比較対象に取り上げたい。用途、設計者は固より、構造や装飾など、多くの点で「聖ヨハネ」とは異質な地域の近代建築にほかならない。しかし「個別的な土着性」の系譜では、「商工会議所」よりもはるかに「聖ヨハネ」に近く、意外な類似性を持つ石の「白い箱」(簡素な会堂)として良いだろう。
たとえば、外壁の側面に付されたバットレス(控え壁)は、鉄筋コンクリート造・石張りの「聖ヨハネ」、明治年間に育まれた積み石造りによる「大谷公会堂」のどちらも、構造的に必要不可欠ではない(8)。「聖ヨハネ」では「ゴシック・リヴァイヴァル由来のキリスト教施設」を示す表象の類型がなぜ、「大谷公会堂」にも使われたのか。屋根の支持構造に眼を向けると、ともに「洋小屋(9)を採用」という解説に行き当たるが、「聖ヨハネ」は出自に照らして当然だとしても、「大谷公会堂」が「和小屋(10)ではない事由」に関する熟思がいささか足りない。
「聖ヨハネ」は、聖公会、ゴシック・リヴァイヴァル、アーツ・アンド・クラフツ運動を通底する理念に従い、厳粛だが親密で簡素な「会堂」として編み出され、聖なる石(張り)の「白い箱」のかたちで宇都宮の近代に着地した。一方、「大谷公会堂」は、石の産地に相応しい一般会集のための「白い箱」を探るべく、地域の地平から逆に西洋の近代と中世を眺め渡し、いくつもの手がかりを得たのではあるまいか。さもなければ、往々にして「ライト風とされる玄関装飾」の蔭で見落とされ、石蔵ともホワイト・キューブとも対極的な空間、ディテールの説明がつかない。
「大谷公会堂」のすべては建築家の創意の賜物、と言い切るのは簡単きわまりない。確かに公会堂は、日本においては新しい社会施設で、その紹介と造営は大正年間に始まった。それでもなお、西洋建築をかたちづくってきた石の組積造は、軟質な材、地震が多い風土、複雑な造りの大伽藍でなくとも構造的な観点で控え壁を有し、それがゴシックの表象、時代が下るにつれて「質朴な実用」の証として、倉庫や工場などに名残を留めたことに留意されたい。小屋組も同様で、「石の箱」に屋根を設けるには、大規模建造物の場合、ドームやアーチ、ヴォールトを築き、さもなければ、洋小屋を組む方法が陸屋根(11)の登場まで踏襲された。石と煉瓦の組積造は明治に伝来したが、純然たる石のヴォールト天井は実践されず、近代工法による写しが昭和戦前に試みられている(12)。
今後、別の機会があれば「大谷公会堂」について詳しく論述したいと考えているが、ひとまず本連載では「聖ヨハネ」の特質を浮かび上がらせるための参照事例にととどめ、ここに筆を置くことにする。
最後に、「聖ヨハネ」の設計者・上林敬吉(かんばやしけいきち:1884~1960年)の横顔と、周囲の人々に触れたく思う。上林が本務として初めて建築に携わったのは、生地・京都の高等小学校を中退して七年後の1903年(明治36)、茨城県土木課に出仕した際とされる。翌年には横浜の下田建築合資会社、すなわち下田菊太郎が主宰する設計施工会社へ移る。およそ二年間の勤務を経て1906年(明治39)になると、ジェイムズ・マクドナルド・ガーディナーが東京に開設して間もない建築設計事務所の所員となった。
下田については、「ライト館」の基本設計をめぐって、のちにライトとの間で不幸な確執が生じる(13)。ただしそれは、上林が下田の会社を離れ、下田自身も横浜の事業を停止し、しばらく経ってからの出来事だった。ちなみに下田は、足かけ九年にわたり、アメリカで修得した歴史・近代建築、最新工法に関する豊かな造詣に基づき、横浜時代は華々しい活動を展開したため、たとえ駆け出しの現場監督という身分だったにせよ、上林は刺激を受けたに違いない。
そんな上林が実務を通じて建築設計・監理を本格的に学び、ライフワークの教会建築に特化していく端緒は、公私にわたる師・ガーディナーの下で働き始めた時点に求められる。当時、上林は21歳の若き聖公会信徒だった。ガーディナーとの出会いは京都の少年時代に遡り、その影響を受けて将来の展望を思い描き、関東へ転じたと考えられる。
1880年(明治13)にアメリカ聖公会の宣教師、立教学校(14)校長として来日したガーディナーは、必要に迫られて教会・学校関係の施設整備を進めた。しかし上林と同様、専門的な知識も経験も有さず、二年で中退のハーヴァード大学教養課程で得た美術史の素養、本人の関心と熱意により、ミッション建築家の道を歩み出す。以降、東京の築地居留地を皮切りに、伝道、英語教育、建築設計・監理という三足の草鞋を履いたガーディナーは、1892年(明治25)、いったんは立教大学校(15)を退き、建築の仕事に重きを置くようになる。あわせて論文執筆に着手し、二度の一時帰国を有効に役立てながらアメリカの母校で学位を取り、1894年(明治27)に教授の立場で立教の教壇に返り咲く。
その頃、大阪・東京を足がかりにして日本聖公会の基盤を築き、ガーディナーを抜擢したアメリカ聖公会 前・日本伝道主教のチャニング・ムーア・ウィリアムズ師は、1895年(明治28)から京都を信仰・生活の拠点とする。1898年(明治31)には、ガーディナー設計の聖三一大聖堂(現・日本聖公会 聖アグネス教会聖堂)も竣工した。そしてガーディナーが伝道局を辞め、東京に事務所を設立したのは1904年(明治37)、という時系列になる。こうした事項と、上林の前半生に集中する生涯の結節点はぴったりと重なり合う。
ガーディナーの事務所に腰を据えてからの上林は、教会建築と、大使館施設や個人住宅という聖俗両方の案件に関わり、最初の五年は設計助手と現場監督を担いつつ1909~11年(明治42~44)の間、夜は正則英語学校(現・正則学園高等学校)英語専修科に通った。この辺にも、師の姿勢に学ぶ上林の信条が感じられる。同校の中途退学と、設計主任への昇進は1911年(明治44)で、以降、1924年(大正13)にガーディナーが逝去したのちも業務を継承する。
昭和初期は、師と自身の事務所を掛け持つかたちを採ったが、実は所在地が等しく、「ガーディナー」の看板が「上林」に変わった年代は曖昧である。明白なのは、自身の名義による仕事は圧倒的に「鉄筋コンクリート造による聖公会の礼拝堂」に占められ、その多くが兄弟姉妹のように、配置・規模・様式の点で「聖ヨハネ」に似ている。ただし――大谷石張りは宇都宮に建つ珠玉の「白い箱」ただ一つだった。
日中戦争の勃発に伴い、時局が戦時下に突入した1937年(昭和12)、上林は事務所をたたみ、翌年から営繕課長として、聖公会を母体とする聖路加国際病院(16)に勤め、戦後に同病院で亡くなる。
図1 日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会礼拝堂 南東側外観と奥に塔屋
設計=上林敬吉|竣工1933年
筆者撮影|撮影協力=日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会
(C)橋本優子+大谷石文化学
*建物の長手方向に5面のバットレス(控え壁)を付し、その間に窓を1窓ずつ配置。
図2 日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会礼拝堂 会衆席から祭壇を望む
設計=上林敬吉|竣工1933年
筆者撮影|撮影協力=日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会
(C)橋本優子+大谷石文化学
*壁は漆喰塗り、インテリアは木で統一され、小屋組は洋小屋のシザース・トラス(鋏組)。
図3 旧・大谷公会堂 150分の1模型 北・西立面
設計=更田時蔵|竣工1929年
制作・撮影=模型工房「さいとう」|photo(C)模型工房「さいとう」|(C)橋本優子+大谷石文化学
*建物の長手方向に2面のバットレス(控え壁)を付し、その間に3窓の窓、左右に出入口を配置。
図4 木造西洋小屋各種
横山 信(1925) 『建築構造の知識』 東京:アルス|筆者蔵書
*大正末期の図解技法書で「屋根と小屋組」の章に所収。
(注)
1. 身廊後方の壁により、小礼拝堂は完全に区分され、その軸線も北西・南東方向で、身廊とは異なる。
2. 聖公会の教会建築では、石の洗礼盤を建物の入口周辺に設える。
3. 聖公会の教会建築では、説教壇・聖書台に立つ聖職者と、その言葉を聴く会衆席の信徒の距離が近い建物の配置・規模が肝要とされる。
4. ロマネスクに確立され、ゴシックで発展を遂げたローマン・カトリックの教会建築のあり方で、これに則るカトリック松が峰教会聖堂については、本連載の第四回を参照。
》地域が誇る昭和戦前の大谷石名建築(2)/ 橋本 優子(宇都宮美術館専門学芸員)
5. 本連載の第五回を参照。
》地域が誇る昭和戦前の大谷石名建築(3)/橋本優子(宇都宮美術館専門学芸員)
6. 本連載の第三回を参照。
》地域が誇る昭和戦前の大谷石名建築(1)/ 橋本 優子(宇都宮美術館専門学芸員)
7. 竣工1929年。設計:更田時蔵。大谷石造+一部木造。かつての所在地:栃木県宇都宮市大谷町。昭和天皇御大典(1928年)の一環として、地域の人々の多大な協力(石・施工の提供など)を得て造営された。2020年に取り壊され、将来的には大谷地区の別の場所へ移築予定。
8. 鉄筋コンクリート造・石張りの「聖ヨハネ」の場合、控え壁は疑いようもなく象徴的なディテールである。一方、積み石造りの「大谷公会堂」は、昭和戦前の長大な石蔵に同一形状の控え壁が見られないことから、やはり下敷きとする何らかの様式の示唆と考えられる。
9. 傾斜した屋根の支持構造(小屋組)のうち、日本の伝統的な和小屋は、束(垂直材)と母屋(水平材)から成り、桁の間に梁、これらに垂木を渡して屋根を載せる。これに対して西洋で編み出された洋小屋は、垂直材と水平材に斜めの材を加えて三角形のトラスを形成する。桁の間に渡した陸梁と合掌(斜めの材)は大きな三角形、吊束と方杖(同)は補強となる小さな三角形を成し、この構造が垂木と屋根を支える。「聖ヨハネ」の洋小屋はシザース・トラス(鋏組)、「大谷公会堂」はキング・ポスト・トラス(真束小屋組)という種類である。一般的に、和小屋は小ぶりの屋根、洋小屋は桁の間隔が長い大屋根に向く、とされるが、近世以前の仏教寺院などで、「聖ヨハネ」「大谷公会堂」の規模を超えるものは存在する。
10. 注9を参照。
11. ほとんど勾配のない平らな屋根を指し、鉄筋コンクリート造の確立により、近代にもたらされた。石や煉瓦の組積造を陸屋根にする場合、壁の頂部をコンクリートの臥梁で固め、その上にコンクリートの屋根を築く。
12. 石や煉瓦のアーチを立体的に組み合わせた天井を指し、西洋の伝統的な工人が受け継いできた高度な知見・技術を必要とする。日本では、明治における煉瓦と木の事例が散見されるが、多くは関東大震災後に登場した鉄筋コンクリート造の「ヴォールト天井風」である。カトリック松が峰教会聖堂のほか、マックス・ヒンデルが手がけた複数の教会建築が知られる。
13 本連載の第二回を参照。
》ライトによって拓かれた大谷石文化の近代(2)/ 橋本 優子(宇都宮美術館専門学芸員)
14 立教は、1874年(明治7)、ウィリアムズ師が築地居留地に設けた「聖パウロ学校」を嚆矢とし、開学して間もなく「立教学校」と改称。1876年(明治9)、火災で校舎が焼失。1878年(明治11)、学校が再開される。1880年(明治13)、ガーディナーが校長に着任し、施設の整備に着手する。1882年(明治15)年、ゴシック・リヴァイヴァル様式の新校舎が竣工。1883年(明治16)、新校舎へ移って「立教大学校」と再改称。1890年(明治23)、「立教学校」と再々改称。1892年(明治25)、ガーディナーが校長を辞任。1894年(明治27)、明治東京地震で校舎の一部が倒壊。ガーディナーが教授として復帰し、再び施設の整備を進める。1899年(明治32)、新々校舎と寄宿舎が竣工。この時の名称は「私立立教中学校」ほか系列の二校で、専門学校令による「立教大学」の始まりは1907年(明治40)、池袋(現在地)への移転は、ウィリアムズ師が亡きあとの1918年(大正7)である。
15 注14参照。
16 聖路加は、1874年(明治7)、スコットランド一致長老教会(プロテスタント教会)のヘンリー・フォールズ宣教医が築地居留地に設けた「健康社築地病院」を嚆矢とし、1886年(明治19)にフォールズ師が帰国すると病院は荒れ果てる。1901年(明治34)、アメリカ聖公会のルドルフ・ボリング・トイスラー宣教医が譲り受け、「聖路加病院」の名で再生に尽くす。1917年(大正6)、「聖路加国際病院」と改称。1923年(大正12)、関東大震災で施設が倒壊。1925年(大正14)、火災で施設の多くが焼失。1933年(昭和8)、アントニン・レーモンド(ライト事務所出身)ら三名のチェコ人の建築家、アメリカのミッション建築家ジョン・ヴァン・ウィー・バーガミニによるゴシック・リヴァイヴァル様式の新施設が竣工。上林が関係したのは、トイスラー師が亡きあとの戦時・戦後復興期である。